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ピックアップレポート

2024年04月08日

菊澤研宗『戦略の不条理-変化の時代を生き抜くために』

菊澤 研宗
慶應義塾大学名誉教授
城西大学大学院経営学研究科長


経営管理論から経営戦略論の時代へ

 近年、日本ではビジネスの世界を中心に、軍事用語である「戦略」(Strategy)という言葉をよく耳にしたり見かけたりするようになりました。また、学問においても、現代の経営学の中心的対象は徐々に経営戦略論となりつつあります。なぜでしょうか。

 戦後、長きにわたって日本企業に戦略的な悩みはほとんどありませんでした。米国から無償でたくさんの先端技術や最新知識を輸入することができ、それにもとづいてより安くよりコンパクトな製品をいかにして大量に生産するか、それだけがビジネス上の問題だったからです。したがって、日本企業に必要だったのは、より効率的に生産するための経営組織論や経営管理論だけでした。

 しかし、そういった平和な時代は終わりました。もはや、米国はかつてのように無償で最先端の技術や最新の知識を提供してくれなくなりました。むしろ、日本企業の多くは平和な時代に米国から輸入した知識や技術を堂々と利用しているため、今日、日本企業が米国に進出する場合、かなりの確率で特許侵害訴訟を起こされるかもしれないという状況です。

 他方、安くて品質の良いものを大量生産するという従来の日本企業の優位性も薄れてきました。というのも、今日、アジア諸国では安価な労働力を利用して日本企業以上に安くて品質の優れた製品を製造する企業がたくさん出現してきているからです。その勢いに、日本企業はとうてい太刀打ちできません。

 このように前を向いても後ろを見ても壁が立ちはだかっているような閉塞状況で、日本の組織や企業はどのようにして生き抜いていくのか……。もはや「戦略」や「戦術」、「作戦」という軍事の概念を避けて通ることはできない時代になっているのです。

軍事戦略と経営戦略は異なるのか

 こうした時代であるにもかかわらず、いまだ経営戦略は軍事戦略とは根本的に異なるとして、戦略論の本家である軍事から学ぶことはないと頑なに思っている人は意外に多いように思います。

 彼らはたいてい、軍事戦略ではプレイヤーが自軍と敵軍の二者であるのに対して、経営戦略ではプレイヤーが自社と敵対的企業と顧客の三者になるから、根本的に考え方が異なるのだと言います。

 しかし、実際にはそうではありません。軍事戦略も実はプレイヤーは三者なのです。すでに敵が占領している地域を奪い取って統治しようとする場合、プレイヤー1としての自軍の軍隊はプレイヤー2としての敵の軍隊をまず排除し、その後いかにしてプレイヤー3としての地域住民の支持を得て占領統治できるかが問題となるのです。

 さらに近年、現実の企業間における競争自体が戦争状態と非常によく似た様相を呈しはじめています。たとえば、少し前の事例ですが、家庭用ビデオをめぐるソニーのベータ陣営とビクターのVHS陣営との戦いは、戦史に登場する戦闘のようにソニーはビクター陣営に包囲殲滅されるかたちで敗北しました。また、ゲーム業界では、今度は逆にソニー・コンピュータエンターテインメントがサードパーティとしてのソフト会社を果敢に取り込み、任天堂に逆転勝利しました。

 そして現在、インターネットが発展して、資本が国際化し、規制緩和が進んだために、日本ではこれまで見られなかった企業の敵対的買収が行われはじめています。特に、乗っ取りのために展開される株式の公開買い付けとその買収のターゲットになった企業との攻防は、かつての世界大戦の攻防に非常によく似ています。

 したがって、軍事の世界はいまや現代の企業にとって「マネジメント」や「リーダーシップ」をはじめとする経営戦略に生きる教訓の宝庫だと言えます。不要な偏見は捨てて、日本の企業人もマネジメントや戦略に関する知識や教訓を軍事から積極的に学ぶ時代が来ていると思います。

戦略とは

 ところで、世界で最初に戦略の概念を使用したのは『孫子』(前五世紀半ば~前四世紀半ば)だと言われています。そして、ヨーロッパでは、クセノフォン(前四三〇頃~前三五四頃)が軍隊の指揮を意味する「STRATEGOS」、「STRATEGIA」という言葉を用い、これが「戦略(Strategy)」の語源になったと言われています。

 では今日、「戦略」という言葉はどのように使用されているのでしょうか。産業界では、企業が生き残りを賭けて市場のシェアを獲得する策略・方法のことを意味します。さらに、ゲーム理論では相討ちをも視野に入れた相手の動きに対するこちら側の最適な適応行動(ナッシュ均衡行動)のことであり、組織論の世界では変化する環境への柔軟な組織的適応のことを言います。

 このように現在、「戦略」という言葉は様々な分野で多様に使用されていますが、その本質はみな同じです。それは、生物学あるいは進化論に通じる生存のための積極的あるいは消極的方法であり、生き残るための知恵、生存するためのアート(技法)のことです。

 組織が生き残るためには、ひたすら誠実にがんばるとか、ただがむしゃらに突き進むというのでは十分ではありません。われわれはいまどのような世界に生きているのか、どのような世界の中に置かれているのかなどについて、自らを取り巻く世界に関する深い洞察が必要となります。そして、そのような洞察にもとづき、試行錯誤を通して絶えず世界に適応しようとする努力が必要なのです。

戦略思想の流れ

 歴史的に展開されてきた戦略思想を眺めてみると、物理的世界観のもとに、軍事の世界で強者の戦略論を展開したのは、名著『戦争論』で有名なカール・フォン・クラウゼヴィッツ(一七八〇~一八三一)です。

 彼は、世の中で最も実在性のあるのは物理学・肉体的世界であり、それゆえそのような世界と関連しないどんなものも実在しないし、存在感もないといった世界観のもとに、敵の物理的・肉体的世界を徹底的に攻撃すれば、敵の心も折れてしまうと考えていました。それゆえ、暴力によって敵の物理的・肉体的世界を徹底的に攻撃することが、最も効果的な戦いの手段であると捉えていたのです。

 しかし、このような物理的・肉体的な暴力だけでは決して敵に勝つことはできないと考えたのが、英国の軍事戦略家バジル・ヘンリー・リデル・ハート(一八九五~一九七〇)でした。彼は、物理的・肉体的世界とは別に、人間の心理的世界もまた自律的に存在していることに注目し、物理的世界と心理的世界の二元的世界観のもとに新しい軍事戦略を展開しました。彼は、物理的な攻撃は心理的な憎しみを増幅し、憎悪の連鎖を生み出すだけだと考えたのです。

 そして、リデル・ハートは、物理的世界だけを前提にして展開されているクラウゼヴィッツ流の戦略を「直接アプローチ」と呼び、人間の心理的世界の実在性を前提にして展開される戦略のことを「間接アプローチ」と呼んで両者を区別し、何よりも後者の重要性を指摘しました。しかも、これら直接アプローチと間接アプローチを体系的に構成するより高次の戦略を、「グランド・ストラテジー(大戦略)」と呼んで、われわれに新しい戦略思想を示してみせました。

 さらに、このような物理的世界と心理的世界への戦略的アプローチだけでは敵に勝てない可能性があることを示したのは、科学哲学者カール・ライムント・ポパー(一九〇二~九四)です。彼は、科学的知識を発見する方法や、科学的説明の構造を研究する過程で、人間の五感ではなく、人間の知性によって把握されうる知識や理論といった新しい世界が自律的に存在していることを発見しました。そして、彼は物理的世界を「世界1」、心理的世界を「世界2」、そして知識的世界を「世界3」と呼びました。特に、知識的世界は知性を持つ誰もがアクセスできるという意味で、客観的世界であると主張しました。

本書の目的

 本書の目的は、このポパーによって展開された物理的世界、心理的世界、知識的世界からなる新しい三次元的な世界観にもとづいて、組織が生き残るためにはこれら三つの世界に対応した三つの戦略的アプローチを体系的に展開し、試行錯誤を通して絶えず環境に適応しようとする努力が必要であることを説明することです。そして、これら三つの戦略を体系的に構成するより高次の立体的戦略、つまり「キュービック・グランド・ストラテジー」こそが、これからの組織における戦略思想であることを読者に伝えることです。

 したがって、本書を通して、物理的世界だけを対象とするクラウゼヴィッツ流の一元的戦略だけでは、もはや現代のビジネス界では勝ち抜けないことを理解していただけるのではないかと思います。たとえば、安くて性能の良い製品を作り、それをユーザーに直接的にアピールしてもなぜ売れないのか、そういった「戦略の不条理」に悩まされている組織のリーダーやメンバーに対して、本書は多くの示唆を与えることができるのではないかと思います。

戦略の不条理-変化の時代を生き抜くために』(2022)の「序章」を著者・出版社の許可を得て抜粋・編集しました。無断転載を禁じます。

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菊澤研宗

菊澤 研宗(きくざわ・けんしゅう)
慶應義塾大学名誉教授
城西大学大学院経営学研究科長

慶應MCC担当プログラム
菊澤研宗さんが読み解く【クリティカル「現代経営学」】

1986年慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程修了。防衛大学校教授、中央大学大学院国際会計研究科教授を経て2023年3月まで慶應義塾大学商学部教授。その間、ニューヨーク大学スターン経営大学院客員研究員(1年間)、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員(2年間)として在外研究に従事。専門領域は経営学、組織の経済学、比較コーポレート・ガバナンス論、ダイナミック・ケイパビリティ論。

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