ピックアップレポート
2005年11月08日
隅田 浩司「交渉のイメージ:交渉学とは何か?」
最近、「交渉学」に対する関心が高まっている。そのため、「交渉学とはどのようなコンセプトなのか」という質問を受けることも増えてきた。そこで、今回は、交渉学について簡単にその基本的な考え方を紹介することにしたい。
まず、交渉を学問的に研究していることで有名なものは、「ハーバード流」と呼ばれる交渉学である。これは、ハーバードロースクールにおいて、ロジャー・フィッシャー教授らが1978年からスタートさせたプロジェクトに端を発するものである。 1このハーバードスタイルの交渉学は、Win-Winアプローチの交渉学(原則立脚型交渉)2を提唱していることで有名である。
ところで、このWin-Winと聞くと、「交渉は、そんなに甘いものじゃない」という批判を耳にすることがある。では、果たしてそうだろうか?
1.Win-Winは幻想か?
実は、Win-Winを目指す交渉は、時々間違ったイメージを持たれてしまうことが多い。極端な例でいうと、あたかも、双方が満面の笑みを浮かべ、和気藹々と交渉しているようなイメージをもたれてしまうのだ。しかし、そもそもWin-Winアプローチとはそのようなものではない。
そもそも、Win-Winアプローチは、お互い笑顔で交渉せよとか、自己犠牲の精神で相手の利益を実現せよ、等とは、一切行っていないのである。むしろ、Win-Winな交渉アプローチは、効果的なそして効率的な合意形成のための現実的な問題意識に支えられている。しかし、意外とこの点については、Win-Winアプローチという言葉のイメージのせいで、誤解されていることが多い。
そもそも考えてみて欲しい。自分だけに有利で、相手にはほとんどメリットがないような交渉が、現実のビジネスでどれほど成立するだろうか。このような状況が成立するのは、相手が交渉の素人であるとか、よほど取引上の力関係が不均衡な状況3の場合だけである。
通常のビジネスの現場では、交渉相手も百戦錬磨のタフネゴシエーターだろう。その場合、自分の正当性を一方的に主張したり、相手に譲歩のみを迫ったとしても、相手は、まず合意に応じることはない。すなわち、Win-Loseな交渉アプローチでは、相手から合意を取り付けるのは相当困難であり、時間もかかることになるのである。
そう考えると、実は、Win-Winな交渉アプローチが、およそ理想論や非現実的な交渉のイメージを語っているものではないことがわかる。すなわち、通常のビジネスでは、交渉は、自分の利益の最大化を目指すと共に、相手の利益にも配慮した交渉の選択肢を用意しないかぎり、およそ効果的で効率的な合意形成はできないのである。特に、交渉に現れる表面的な相手の言動ではなく、相手が交渉に際して何を望んでいるのかを把握することで、一方的な自己主張ではなく、相手と合意する糸口をつかむことが重要だ。
このように、Win-Winな交渉アプローチは、自分にとって不利益だが相手にはメリットのある合意を推奨するものではない。相手の利益は何かを把握し、時にはその利益と自分の利益の双方を満たす合意案を策定することが、結果的には、自分にとって最適な合意形成を速やかに行うことができるということを述べているのである。
2.「落としどころ」を探すだけでよいのか?
このように交渉では、一方的な自己主張の応酬ではなく、合意形成に向けた相互利益の増進を目指した方が、最終的には自分たちの利益を最大化しうるものであるといえる。そうなると、次に、交渉は、とにかく合意すること、すなわち、「落としどころ」からスタートすることが重要ではないかと思われるかもしれない。実際、日本では、交渉上手=落としどころを見つける人、という認識が根強い。確かに、交渉において、最終的に双方が納得できるライン(落としどころ)を探ることは重要だ。しかし、「最初から」落としどころを探す交渉は果たして効果的といえるのかどうか、考えてみたい。
まず、そもそも「落としどころ」とは何だろう。多くの場合、落としどころとは、双方がぎりぎり納得できるミニマムな合意結果を指す。いわば、「下を向いた」交渉、すなわち「双方の軋轢を最小限度に抑えて合意できる」ラインである。
このような合意結果は、合意したことには満足だが、どうも思ったほど利益が出ないということになりがちだ。では、そもそも交渉とは何のためにするのだろうか。
ここで注意したいのは、合意することが「正しく」、不合意は正しくないという二分法的発想の危険性である4。すなわち、交渉とは、自分の利益を実現するために行うものであることを忘れてはならない。従って、自分が考える目的を達成できる可能性が薄い合意は、避けるべきであり、時として、名誉ある撤退こそが、交渉での最善の選択肢となる5。
しかし、合意至上主義の考え方は容易に払拭することは難しいだろう。だが、そのために、ほぼ恒常的に値引き交渉にさらされ、取引は続くものの利益はさっぱりということが発生してしまっていないだろうか。ここで発想の転換が必要である。
交渉学では、交渉の目標を合意ではなく、その先、すなわち、合意によって目標を達成したり、利益を実現することに置くことを推奨している。従って、もし、合意しても自分の目標を実現できない場合は合意しないことも交渉の一つの成果だといえるのである。
そう考えると、「落としどころ」探しをいきなり、交渉の最初の段階から行うことには問題がある。なぜなら、落としどころ探しは、合意によって達成できるメリットを最大にするというよりも、迅速な合意のために双方にとって合意しうるミニマムな選択肢や、毎度月並みな解決策での合意を目指すことになるからである。
従って、交渉では、最初から、落としどころを探すような交渉スタイルを取るべきではない。まず、最初に自分が交渉で実現したいと考える目標を立案し、その目標を達成するために交渉をするのだという姿勢、すなわち「上を向いた」交渉をする必要がある。この発想一つで、合意内容には大きな変化が起きることになる。
3.合意形成に必要な能力とは何か?
交渉では、「合意しない勇気」も必要だと述べたが、やはり交渉は、合意できればそれに越したことはない。そこで、合意形成に必要なスキルを紹介しよう。
まず、交渉は、一種の知的なゲームである。そこでは心理的な駆け引きと冷静な判断力が交錯し、油断のならない展開に身を置くことになる。そこで大切なのは、論理的思考の方法論であり、演繹法や帰納法の本質を理解し、相手の論理矛盾を明確に認識して、交渉を進めることが大切である6。他方、交渉では、常に適切な意思決定が要求される7。このようなトレーニングは、交渉学講座の中で、又最近ではe-learningを活用した学習法において、体験的に学ぶことが有益である8。
ところで、タフネゴシエーターは、雄弁で議論好きと見られがちである。しかし、実際のプロの交渉人は、概して、聞き上手だ。特に、相手の言葉を理解し、そして質問をすることが非常にうまい。それは、相手のニーズや隠された情報を聞き出すことこそ、交渉を成功に導く秘訣だからである。ここで「交渉相手の言い分を聞いていては交渉にならない」と思う方がいるかもしれない。
しかし、単に、相手の話を聞いてあげることと、その話を「受け入れる(認める)」ことは分けて考えるべきである。このあたりの区別をはっきりつけながら、効果的に情報を引き出していく能力を磨く9ことが重要である。これは、トレーニングを積まないとなかなか難しいが、その意識を持つだけでも交渉の成功確率を上げていくことができるだろう。
また、交渉学では、人と問題を分離して考えることを重視する。これは、交渉において、フォーカスすべき問題を間違えないようにするための重要な教訓である。というのも、人は交渉相手の態度や言動に気を取られ、交渉において解決すべき問題にフォーカスするより、交渉相手それ自体が「問題」であると錯覚してしまいがちだからである。
また、国際交渉などでは、双方の国家の威信やメンツにこだわるあまり、合意形成が困難になる場面がある。例えば、戦争当事国の停戦合意や、国境紛争、歴史認識の問題や人種差別などでは、仮にWin-Winな合意結果が存在したとしても、そんな合意は、「立場上」認められないといった主張が繰り広げられることも多い。このように、交渉では、双方にメリットのある合意が可能な場合であっても、交渉者同士の感情的対立や立場に固執するために、そのような合意ができなくなってしまうことが少なくないのである。
このような問題を回避し、できる限り効果的な合意を形成するために、交渉相手ではなく、交渉によって解決すべき問題にフォーカスする必要があるといえる。しかしこれは難しい。私たちは、気に入らない相手だとどんなに双方にメリットがある合意だとわかっていても、「この相手にそんないい思いをさせたくない」といった感情のバイアスのため、合意を意図的にしなかったり、交渉相手に対する先入観故に、相手が理不尽に思えたりする。このような場面でどのように人と問題を分離するのか、そのスキルを学ぶのが交渉学なのである。
4.最後に
以上、駆け足だったが、交渉学のエッセンスを紹介してきた。この交渉学を一言で表現すると、交渉に戦略性10を持ち込んで交渉の成功確率を上げる学問であるといえる。この具体的な手法についてさらに学ばれたい方は、是非、日本の交渉学研究の第一人者である田村次朗教授が主宰され、私もお手伝いをしている慶應丸の内シティキャンパスの「戦略的交渉力」の受講をご検討いただきたい。おそらく交渉に関する一つのブレイクスルーを体験していただけることと思う。
注釈
- DIAMONDハーバードビジネス・レビュー編集部編『「交渉」からビジネスは始まる』(ダイヤモンド社 2005)244頁
- 詳細は、ロジャー・フィッシャー、ウィリアム・ユーリー、ブルース・パットン『新版 ハーバード流交渉術』(阪急コミュニケーションズ 1998)を参照。
- なお著しく相手に不利益をもたらす合意は、法によって規制される場合がある。例えば、独占禁止法19条が規定する不公正な取引方法の一般指定14項「優越的地位の濫用」や、下請代金支払遅延等防止法などがその代表例である。
- 田村次朗『交渉の戦略』(ダイヤモンド社、2004)10頁参照。
- 交渉の成功イメージが合意だけであると、不合意に対する恐怖感が強くなり、合意のメリットがはっきりしないにもかかわらず、合意のための譲歩をしてしまうことがある。
- 慶應義塾大学法学部の田村次朗教授が提唱する交渉学では、この論理的思考力強化と交渉との関係が明確な形で整理されている。なお、バーバラ ミント『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(ダイヤモンド社 1999)及び、ゲーム理論との関係については、神部信輔『入門 ゲーム理論と情報の経済学』(日本評論社 2004)139頁以下参照。
- スティーブン・P・ロビンズ『もう決断力しかない―意思決定の質を高める37の思考法』(ソフトバンクパブリッシング 2004)、同『組織行動のマネジメント』(ダイヤモンド社 1997)を挙げる。
- 現在、私は、東京大学先端科学技術研究センターにおいて知財戦略と交渉学を研究しているが、同時に、教育工学の手法を取り入れた効果的なe- learningの手法も検討している。この点については、隅田浩司・一色正彦・高槻亮輔「知財ビジネス交渉のケース体験-交渉学紙上体験」パテント(日本弁理士会)58号(2005)17頁を参照されたい。
- ジム・チャンプ『交渉は「ノー!」から始めよ―狡猾なトラに食われないための33の鉄則』(ダイヤモンド社 2003)74頁。
- 戦略論については、御立尚資『戦略「脳」を鍛える』(東洋経済新報社 2003)又は、ジェイ・B・バーニー『企業戦略論(上)基本編』『企業戦略論(中)事業戦略編』『企業戦略論(下)全社戦略編』(ダイヤモンド社 2003)参照。
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