今月の1冊
2006年06月13日
『フィンランド・メソッド入門』
著者:北川達夫/フィンランド・メソッド普及会
経済界; 発行年月: 2005年11月; 1,429円(税込1,500円)
書籍詳細
“Beef or chicken?”
フライトアテンダントの女性が声をかけていく。隣に座る男性が”No, no”と繰り返し首を振る。彼女が聞き返すと、男性はまた大きく首を振る。男性のしぐさの意味と、それがわからない彼女の戸惑いの両方がわかった。「彼は食事がいらないそうです。」と私が言うと、彼女は忙しく動かしていた手を止めて「ありがとう。助かったわ。」と微笑んだ。驚いた。
いつも何か面倒くさそうで、私たちのことを子供扱いしているようで、米国系航空会社に乗っていて心地よいと思ったことはなかったし、それは役割や雇用が違うから仕方のないことだと私も思っていた。サービスが悪いと定評もあるし、言葉の壁を挙げる人も多いと思う。それがこんな些細なやりとりで、今まで不愉快そうだった相手と気持ちが通い合ったように感じた。
「オレンジジュース。」次に前列の女性が言った。フライトアテンダントは聞き取りきれなかった様子で、パッケージを指しながら「ジュースはアップル、オレンジ、フルーツミックスとあります。どちらですか。」と聞いていった。女性は伝わらなかったのをさぞ不愉快そうに(またはがっかりしたのかもしれない)、「オレンジ。」と不機嫌に答えた。”Orange?”確認しながらジュースを注ぐ彼女にはもう微笑みはなかった。
これは何だろう?
文化やコミュニケーションスタイルが違う、では片付けられない。彼女と機内を観察しながら考えたのだが、それが何なのかそのときはよくわからなかった。
そしてその答えを「フィンランド・メソッド入門」に見つけた。子どもにも大人にも大切なもの。私たち日本人に欠けているもの。相手との雰囲気を瞬時にとがらせも和らげもするもの。「相手がどこのだれだろうと、自分の言いたいことを理解させる能力。そして、相手がどこのだれだろうとその言うことを理解する能力」、グローバル・コミュニケーション力だ。
フィンランドが教育先進国として注目を集めている。経済協力開発機構(OECD)によって世界30カ国の15歳児を対象に3項目でおこなわれた国際統一テストで、読解力1位、科学的リテラシー1位、問題解決能力2位を連続で獲得したというからすごい。この本は、そんなフィンランドの、小学校で実際に行われている教育メソッドを図解入りで紹介している。
英才教育ではなく、落ちこぼれを出さずにすべての子どもの基礎的な知力を高める工夫をしているシンプルなメソッドだ。
きれいなシーグリーンの表紙と、不思議なサイズに惹かれて、ビジネス書の棚に並ぶこの本を何気なく手にとった。読んでいくと、私たち大人が、日常でもビジネスでもどんな場面にもいかせる、学ぶべきことがちりばめられた、とても共感できるものだった。
フィンランド・メソッドの基礎は、発想力、論理力、表現力の3つだ。
まず、発想力。言いたいことを思いつかなければコミュニケーションは始まらないからだ。次に論理力。言っていることに筋が通っていなければ、相手が誰であろうと通じない。そして表現力。言いかたが悪ければ、言いたいことは伝わらない。そしてこれに、応用として批判的論理力と総合的なコミュニケーション力の 2つが加わる。
興味深いのは、方法もシンプルで、いずれも「練習」で伸ばせる力だということだ。難しい理論の勉強や苦い英単語の暗記などではない、ルールと方法があって、理解できるまで繰り返す、身につくまで反復することで、グローバル・コミュニケーション力が身につくというのだ。
練習の内容とルールを紹介したい。
発想力の練習は、あるテーマを中央に書き、連想する言葉を線でつなげ、加えていくカルタと呼ばれるマップだ。テーマについてそれはどんなものか、それで何をするのか、枝とともに発想を広げる。さらに、クラス全体で1つのカルタを作り、発想力と分析力の練習もする。注目したいのは、どんな意見も必ず書き加えることだ。明らかにふざけた発言は、枝がそれ以上伸ばせないだけだし、独創的な意見かもしれないからとの説明は、説得力がある。
論理力のためには、自分の意見に対して必ず、「どうしてそう思ったのか」を言うというルールがあるだけだ。重要なのはどれだけ正確に理由を表現できるかではなく、なぜ自分がそう思ったのか、「考える機会を与えること」。
そして、相手が納得できる理由が挙げられるかも大切になる。意見と理由の論理の組み立ては相手との関係によって変わるものだからだ。これが応用力の批判的思考力になる。自分がさいしょに考えた理由だけだろうか、その理由のいいところと悪いところは何だろうか、議論の前提について「本当にそうかな?」を常に考える練習だ。
そして表現力が私にとって衝撃的だった。
決められた語句だけを使って、できるだけ短い作文を論理的に書く練習をする。基本的な型が身につくまで、フォーマットに従って書き続けるというのだ。私たちがイメージする表現力とは相反するようなこの反復練習が、自分の言いたいことを相手に分かりやすく表現する技術なのだ。
口頭での表現も同じように練習する。ここではさいごの総合的なコミュニケーション力が関連してくる。相手の立場になって考えることと、議論のルールを守る、の2つだ。このルールとは、他人の発言を遮らない、話すときは怒ったり泣いたりしない、話をするときはほかのことをしないなど。マナーとも呼べる基本にも感じるし、私たちが会議のテクニックと呼んでいるビジネススキルでもあることに気づかされる。
ここまでくると、欧米人は表現豊かで積極的な国民性だからこれでいいのだ、と反論したくなるかもしれない。これに対しては面白い事実が紹介されている。
かつてヨーロッパでは「フィンランド人は二ヶ国語(公用語のフィンランド語とスウェーデン語)で黙る」という表現があるくらい、フィンランド人はもともと人づき合いが下手でシャイな国民性だというのだ。人口500万ほどの小国で、ヨーロッパの国と互換性のないアジア系ウラル語族の言葉をもつ民族だ。だからこそ、フィンランド・メソッドが生まれた。
平田オリザさんが「夕学五十講」の講演で、日本人の多様化、国際化、そして日本社会自体の国際化によって、日本人に求められるコミュニケーションの質が変わっているにも関わらず、現実は逆行しているといった指摘をされた。
従来日本は、場を読む、行間を読むと言うように、コンテキストの共有を前提とした文化で、コミュニケーションは親しい人どうしの「会話」が中心だった。しかしいま、価値観が異なる相手や知らない人とコンテキストを共有するために、説明し合うための「対話」が求められている。コミュニケーションが「協調性」から「社交性」へと変わっているのだ。
一方で、子どもたちは、他者との直接的な関わりが少ないために表現が求められる場が少なく、伝わらない経験をどんどんしなくなっている。そのうえ、少子化のために学校も家庭も温室化していて、「飲みたい」とも「ください」とも「のどが渇いた」とも言わなくても、「オレンジジュース。」の一言でジュースが飲めてしまう社会になっている。
これを聞いて、子どもに限ったことではなく、私たち大人にも当てはまることだと思った。私たちは、自分の意思を伝えたいという気持ちを強く持つことを忘れてはいないだろうか。相手にわかってもらえないとき、表現を工夫する努力をする前に関わりを諦めてはいないだろうか。
ビーフとチキンの選択を問うフライトアテンダントと、首を振ることでどちらもいらないと表現した男性。コンテキストが共有できていなかったとも説明できるし、もしかしたら問題は、理解できないことについて対話をしようとした彼女と、対話までふみきらなかった男性とのギャップだったのではないかと思う。
一杯のオレンジジュースが注がれるまで、嫌な雰囲気のままやりとりが続いたフライトアテンダントと前列の女性。日本語で「オレンジジュースをお願いします。」とオレンジジュースを指せば、いちどに通じたのかもしれないし、フライトアテンダントを笑顔にする英単語は”Orange”ではなく” Please”であって、課題は”Orange”の発音できるかではなく「お願いします」という気持ちだったではないだろうか。
グローバル・コミュニケーション力とは何だろう。それはどうしたら身につけられるのだろう。
ひとりでも多くの人が、絵本を読むような楽しい気持ちで、気軽にいちど手にとって、考えてみてほしいと思う、そんな1冊だ。なぜなら私自身が、小さいけれどしっかりと残る宝物をフィンランドに見つけたからだ。
(湯川真理)
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