今月の1冊
2017年08月08日
『あなたに褒められたくて』
あの高倉健が誰かから“褒められたい”なんて・・・。
高倉健さんといえば、日本を代表する大俳優のひとり。
「健さんに憧れて、役者の世界に入った」なんていうのを有名な俳優さんが話すのをテレビで見たこともある。
多くの賞賛を浴び、尊敬されるような人であっても、まだなお誰かから褒められたいという気持ちがあったのかなぁ、という意外性がこの1冊を読んでみたいと思ったきっかけだ。
高倉健さんが亡くなったのは2014年。83歳だったそうだ。出演作品で観たことがあるものと言えば、『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』、『南極物語』、『鉄道屋(ぽっぽや)』…と、いずれも日本映画史のなかでも代表作品であり、数多くの日本アカデミー賞 最優秀男優賞を受賞されている。
「自分不器用ですから…」と、本当に言ったかどうかは素人の私には知る由もないけれども、健さんを表す一言としてよく聞かれる通り、どの作品でも、口数は決して多くないが、相手の懐に入り、人としての温かみがあり、ふとした表情やしぐさに優しさを感じる演技が印象的だった。映像からですら、実際の健さんも、親切の押し売りではない、真の優しさがある方なのではないかと思わせる魅力を感じていた。
本書の初版は1991年。ちょうど健さんが60歳の頃に書かれたエッセイとなる。役者としても、人としても円熟みが増している年頃だったのではないかと思う。
表紙を開くとまず一行。
「―人が心に想うことは誰も止められない。」とある。
旅先で想ったこと、人との出会い、役者として演じる時に考えていること・・・えー、あの物静かそうな健さんが・・・と思うほどに、日々の小さな事柄から生きるうえで大切なことまで、あれやこれや素直な心の動きが丁寧に綴られている1冊なのだ。
そして最終章が、本書のタイトルにもなった「あなたに褒められたくて」。
最愛なる母親に、親孝行としてまとまったことがしたくて、海が見渡せる岸壁にある立派な家を贈る。でも母は、階段を降りるのが嫌だからと決してその家を訪れようとはしなかった。
役者人生を代表するであろう作品『八甲田山』を観ても、「雪だるまみたいに這いまわっていて・・・もうちょっといい役をやらせてもらいなさい」と取り付く島もない。
「でも、お母さんがいてくれたから、あなたに褒められたいというそれだけで、どんな作品も世界のどこに行っても、三十数年駆け続けてこられた」と、想いをありのままに綴っている。
そう、お母さんから褒められたことなんて一言も書かれていない。思うに、明治の女である健さんの母は、息子の前で褒め言葉なんて口にしたことはなかったのかもしれない。
「お心入れ」というタイトルの章がある。
お客様に対してもてなしをすることを“お心入れ”というそうだ。日本の文化では、たとえば季節の掛け軸であったり、花であったり、茶器であったりと、迎える側はさりげなく、でも思いを込めて用意する。お客の方もその思いをそっと理解する。
すべてを言葉にしないこと、あからさまにしないことの美学がそこにあり、“気づかない奴はただのアホ”と書かれているように、わかる者だけがわかれば良い、というどこか凛とした潔さも感じる。
最近は、なんでもかんでも言葉にしすぎ、言い過ぎ、説明し過ぎ、しかも思いが入ってもいないのに思いが入っているようにやろうとするから具合が悪い。と、穏やかな文章のなかにも、健さんは容赦ない。
それは、健さんにとっての「褒められたい」いう気持ちともつながるように思う。それは、誰に対しても持っているのではなく、言葉の限り尽くせば良いという生易しいものでもなく、母親という“かけがえのない存在”が、“いてくれること”が大切だったのかもしれない。
とかく、言葉にすることで安心しきったり、勝手に不安に思ってしまう昨今の私たち。真の意味で、お心入れを大切に、あえて言わない、出さない、書かない・・・っていうのも良いのかもしれない。
“褒められて伸びるタイプ”なんていうのが王道している今だからこそ、健さんの持つ表現し過ぎない美学がどこか新鮮で、心に刺さる。
そして、本当に「褒めてほしい」相手は、自分のすごく側にいて、その人を失った時に初めてその存在に気づくことも、健さんはそっと触れている。
人生の正午と言われる年代に入った今の私だからこそ、健さんの美学が少しは感じることができたのではないかと思う、自分のいまをふと立ち止まることのできる大切な1冊に巡り合うことができた。
(保谷 範子)
『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)
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