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今月の1冊

2018年01月09日

『猫は踏まずに』本多真弓(六花書林)

猫は踏まずに』(六花書林)
著:本多真弓 ; 出版社:六花書林 ; 発行年月:2017年12月; 本体価格:2,160円

著者の本多真弓さんは、慶應MCCの受講者である。数年前に開催した、歌人の穂村弘さん主宰のagora講座「短歌ワークショップ」に二年続けて参加された方で、私も受講者としてご一緒した。
本多さんは、衝撃的な歌を携えて私たちの前に登場した。この本にも採録されている。

三年ぶりに家にかえれば父親はおののののろとうがひをしており

穂村さんは、本書に寄せた栞文で、「おののののろ」というオノマトぺについて、「女じゃなくて、若くもない、おじいさんに近いおじさんらしい響きじゃないか!」と激賞している。講座の当日も同じ趣旨の賞賛を述べられたのをよく記憶している。
日本人が歌を詠むようになって1500年、初老男性のうがいをして、「おののののろ」と表現しえた人間はいなかったに違いない。

この本は、そんな本多真弓さんが、満を持して送り出した第一歌集である。

短歌ワークショップの終了後も、時折MLを使ってバーチャル歌会をやっていた。お題を受けて、希望者が歌を投稿し、無記名で発表された投稿歌を全員で評価し合うという趣向であった。そのすべてを取り仕切り、お題の提示から、編集、結果発表までのオペレーションを一手に引き受けてくれたのが本多さんであった。ようするに、彼女はかなり仕事ができる人なのだ。
穂村さんは、ある時「本多さん宇宙人説」を紹介してくれた。当時からプロの歌人の間でも知られる存在であった本多さんは、その歌の才能はもちろんのこと、短歌誌編集の裏方スタッフとしても、高度な業務処理能力を発揮しており、「宇宙人のようになんでも出来てしまう人」という評価を得ていたようである。

私も、この歌集を読んでみて、本多さん宇宙人説に、別の意味で強く賛同したい。
まず、彼女は、ウルトラ怪獣ダダの如く、いくつかの顔を持ち自由に使い分けることができる。本多さんが私と同世代の女性であることは、この目で確かめているので間違いないし、横浜のみなとみらい地区で働いているということもご本人から聞いたような気がする。
しかし、この歌集には既知の彼女を含めて、何人もの「本多真弓」が登場する。

パソコンを片手で打てるようになる納豆巻きを摂取しながら

後輩のカラータイマー点滅すあとはわたしがやるからやるから

三年をみなとみらいで働いて時々海を見るのも仕事

このあたりはOL「本多真弓」の歌である。
本書の題名にもなった次の歌がOL歌の秀逸作品かもしれない。

わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

猫は踏まないのだ! 一匹たりとも!という宣言を聞くと、会社へ行くという行為が、意気込みと覚悟と義務と嫌悪が混ぜ合わさった複雑な色彩として立ち上がってくる。

置き傘のやうなわたしは曇り日にきみとはぐれてしまう、おそらく

「カップルかファミリー以外この橋をわたるべからず」歩いてゆくよ

これらは微妙なお年頃の独身女性の歌である。なにかの端境期を迎えようとしている女性心理を、少し乾いた表現で表しているような気がする。
かと思うとこんな正体不明の歌もある。

嫁として帰省をすれば待ってゐる西瓜に塩を振らぬ一族

「新発売<朝に咥へて走る用>恋がはじまる春の食パン」

前者は、昔懐かしい「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」といったナンセンスホームドラマの世界観を、後者はジブリ映画の冒頭シーンを想起させる。

時には社会派にもなるらしい。

属国がより属国になりゆくを早口にいふニュースキャスター

目の前のノルマこなしてゐるうちに法案はとほりぬけてしまった

この歌集には、さまざまな作中主体になりきった、何人もの本多さんがいる。

難しい言葉を知っているところも宇宙人っぽい。
「菅の根の」、「さきくさの」、「繊月の」、「霹靂神(はたたがみ)」いずれも枕詞らしいが、平安時代から運んできたかのように古めかしい。

「武夷岩茶」、「空五部子色」、「ファルファッレ」、「Made in Occupied Japan」いずれも、私は寡聞にして知らない言葉だったが、調べてみるとなるほどと思わせる。違和感たっぷりに使われる難しい言葉が、歌を解釈するうえでの鍵穴になっているのだ。

人を疲れさせる歌集でもある。
「これわかるかな?」というようにして、挑戦的に読者に放り投げられてくる歌が多いのだ。5つ、6つ読むと、背もたれに寄りかかって、フーとひと息をいれたくなる。本多さんとの知的格闘は、私に心地良い疲れをもたらせてくれる。

きみの声ひどくちひさく届くこゑ冬の真水をからだに入れて

旧館に飾られてゐた絵をはづすあなたの指のやうに来る秋

ぶらんこの真下の土は削られる運命だけどあきらめちゃだめ

これらは、あと一歩のところまで迫ったという実感を掴みながらも、最後の鍵穴を開けられないでいる歌だ。「冬の真水」「あなたの指のやうに来る秋」「ぶらんこの真下の土」といった言葉に仮託したものを把握できないでいる。本多さんの歌を括り取るには、一筋どころか、三筋、四筋の縄を必要とする。

最後に、私が好きな(気になった)歌をいくつかあげて終わりにしよう。

もう一度触れてください 改札で声の女に呼びとめられる

あの「イラッ」とする無機質な音声アナウンス。人間の情緒安定性を刺激する周波数なのかもしれない。女の声、ではなく、声の女、という語順選択のセンスがすごい。並べ替えたことで音声への違和感と嫌悪感が際立つ。「やられた!」と呻かされる本多さんらしい歌である。

曲者ぢぁであへであへと叫びつつ退治してゆくわれの白髪

一本や二本ではない。水戸黄門の番組後半で出てくる黒装束の輩の如く、切っても切っても湧きあがるように出てくるのが白髪というやつなのだ。こういうユーモアに満ちた歌が多いのも本多さんの特徴である。

もう会わぬ従兄弟のやうなとほさかな みなとみらいとニライカナイは

「みなとみらい」と「ニライカナイ」は、六文字であることと最後の韻が同じことだけが共通で他は似ていないのに、なぜか語感が近しい感じがする。明瞭な相違と微妙な同質が共存する関係というのは、故郷の従兄弟との関係のようでもある。
親の代には近しい親戚だったのに、自分の代では疎遠になって葬式でしか会わなくなる。やがて子供の代になれば民法上は他人同士になる。私たちの周りには、そんな儚く、ノスタルジックな「関係性の盲点」が偏在している。
故郷の思い出から思いついたのか、みなとみらいから海を眺めつつ頭に浮かんだのか、その経緯はわからないけれど、不思議な共感を覚える歌である。

(城取 一成)

猫は踏まずに』(六花書林)

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