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夕学レポート

2018年08月14日

石川 善樹「人生100年時代のセルフマネジメントとは何か?」

石川 善樹
予防医学研究者、(株)Campus for H 共同創業者
講演日時:2018年5月8日(火)

石川 善樹

人生100年時代の心のあり方

石川善樹氏は現代の若い人だと思う。悪い意味ではない。講演が雨天の日だからか傘をさした人の絵のTシャツにジャケット姿で軽やかに登場し、聴衆の年代やニーズをよく捉えており、論理的で大変良くまとまっていて話し方もわかりやすかった。「考えるスタート地点が大事なので語源から考え始めるのが好きです」と言って予防医学がイタリア語で馬を御すること、自分を御することがマネジメントとの話、そして石川氏の「胸にどうしようもなく迫る」3つの疑問が紹介される。

(1)自分は何歳まで生きるか? (2)こんなに自堕落でいいのか (3)何歳から本気出すのか?

初めに大枠が示された。他にも講演は豊かに広がったがここではこの3点に絞り紹介する。

(1)自分は何歳まで生きるか?
かつての日本人の寿命と定年について終戦直後の50歳(定年なし)、1964年70歳(定年55歳)、現在を紹介した。面白かったのが2030年の各国の予想寿命で第3位の日本、第2位のフランス、では第1位はという質問だ。予想外の韓国だった。その理由もまた予想外で、韓国の年金制度は破綻しているので働かなければならない、働く事は人を活性化させるのでその結果寿命も延びるというのだ。何だか良いのか悪いのか…。これからは100歳まで生きるリスクが極めて高く、政府も定年75歳の方向に動いている。100歳まで生きるのが「リスク」と表現される時代なのは悲しいが(昔は「めでたい」と言われたものだ。)、早死しないための予防医学から「100歳まで健康に生きるため」がこれからの予防医学である。

今回の講演では具体的な「健康のためにこれをしましょう」といった事は何もない。その代わり心の根本のあり様に講演の軸は置かれていた。例えばフランスのように若さではなく年を重ねることに価値を置く社会こそが老人が生きやすい社会である等。実際660人の男女の23年間を追跡調査したところ10年後の自分を肯定的、否定的に捉えるかの違いで寿命に7.5年の差があることが判明したそうだ。人生100年時代に一生を25歳ごとの春夏秋冬に分けると、アクティブ・シニアとも評される50歳から75歳の秋の世代はシニアではない。老人でも若者でもないこの世代を石川氏は「人生100年時代には50歳からが輝く『サード・エイジ』」と表現した。

(2)「こんなに自堕落でいいのか?」
という己への問いの源はある年長者から時間軸と為すべき事について成功のアドバイスをもらったことによるそうだが、一方でそのアドバイスが強力であったが故、氏は毎晩寝る前に「人類の知識を前に進められただろうか」と問い、そして365日「ノー」との答え、自堕落さ加減に落ち込んでいるらしい。ここで聞いている私はある思いを持った。そしてそれは次の話で明確なものとなる。

(3)「何歳から本気出すのか?」
孔子ですら天命を知ったのは50歳。自然科学は大体40代で、社会科学は50代で一生の研究テーマが見つかるもので、それ以前は修行という。社会科学出身の私は一気に気が楽になったが少々気になった点もある。それは「本気出すのか?」だ。「天命を生きる」という事を意味する表現上の問題かもしれないが、「何歳から本気出すのか?」とはそれまで本気を出していないの?と思わなくもない。

自分が生かされている事の責任は何かと問うた時に、「次の世代に時代というバトンを渡す事、自分はそのバトンを創りたい方だ」、「次の世代に通じる学問を創っていきたい」、「これからの世界は○○産業の時代になるのか、その基礎となる学問は何か?」と石川氏は自らに問い、渋沢栄一と高峰譲吉を例に挙げた。「でも」と私は思う。渋沢も高峰も新しい学問を創ろうと思って始めたのだろうか?大いに疑問である。もちろん途中から創ろうとしたにしても、最初は必要をこなすうちに、あるいは興味を追っていくうちに後からそれが発展していったのではなかろうか。同時代の福沢諭吉も新しい学問を創ろうと思った訳ではなく、志やビジョンを基にした上でそうすることが必要だから塾を創り、新聞を発行した。それが発展という結果を生んだに過ぎない。

氏の言う「修行」時代に誰でもあるだろう無様な失敗、しなければ良かった選択、夢の残骸、そうした数々の失敗や回り道を含めて大半の人はその時々を必死に「本気を出して」生きている。だからこそ私は「何歳から本気出すのか?」の言葉に違和感を覚えたのだろう。この言葉の源には現代社会に流行している「何かを為さねばならぬ病」があるように感じるのだが、何かを成し遂げたり得たり、あるいはその対象が明確でないと不安に駆られるというのは、どうも多くの現代人が嵌っている落とし穴のように思う。何かを為していなくても幸せを十分感じられていたのに、現代は「何かを為す事」「誰かに貢献する事」にあまりにも価値を置き過ぎていると感じるのは私だけだろうか。

かつて教えられたという「アドバイス」が目指すところの「成功」に石川氏も含めて多くの人が捉われてしまっているようで、だからこそ毎晩「人類の知識を前に進められただろうか」と背負いきれない荷物を一人で背負い込んでいるのではないか。「成功、成果」は目指すべきものではあるけれど、それを得る事に捉われ過ぎていると疲れ果てて燃え尽きたり、不幸になってしまう。「目標を追っている段階こそ成功」または「成功を得る事と得るための過程は同じこと」と言う人達もいるくらいだ。自分が作り上げた背負いきれない荷物に毎晩苦しむならその荷物、見直してみませんか? 何だかそう問うてみたくなった。

今回の講演では心の軸の置き方の中でも動機付けに焦点が当たっていたけれど、来年予定の講演では「人生100年時代の幸せの感じ方」を待ってます。

(太田美行)

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