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今月の1冊

2018年10月09日

『陰翳礼讃』谷崎潤一郎

陰翳礼讃
出版社:中央公論新社(ほか多数) ; 発行年月:改版 (1995/9/18); 本体価格:514円

まぁ、ほんとうにお好きなんですね。
お相手がどんなお顔をなさろうと、お構いなし。
愛するものについて、どんな具合にどう美しくてどう愛でるのが自分は好きか。
ねっちりとお語りになるんでございますよ、あのお人ったら。

ある時、海外生活の長い方からこんなお話を伺ったんです。
「ディナーの後なんかにね、酒を飲みながらいろんな国の人と談笑してますとね、いつの間にか日本人は会話の輪から外れちゃってるんですよ。ビジネスの話では元気だったのに、文芸とか音楽とか演劇、宗教の話になると、無口になっちゃう。『君はどう思う?』『君の国ではどんなアートがおすすめ?』なんて訊かれたら困りますからね。語学力はあるんですよ。でもね、アートや宗教を知らないの。さらに“君の国の”なんて言われたら、もう冷や汗ですよ。他国の人のほうが茶道や禅に詳しかったりしてね」

なるほど、たしかにそれは冷や汗ものです。
私もぜったい無口になってしまいます。
と、思った時、ふと頭をよぎったんです。
「そういえば、正反対の人、口説くように語りつくす人がいたなぁ」と。

なにをかくそう、それが冒頭にあげたお人、作家の谷崎潤一郎です。

谷崎が日本の美の感覚についてお書きになった随筆『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』。
有名なのは羊羹(ようかん)のくだりでしょうか。

日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

羊羹ひとつとってもご覧のとおり。
まぁ何でしょう、西洋菓子を作る方や好む方なら眉を少しひそめそうな一文もあるかもしれませんが…。
「貴方がそこまでおっしゃるなら、今日はひとつ羊羹でも買ってみましょうか」という気持ちにもなろうというものです。

ほかに、建築、家具、文具、宝石、器、蒔絵、能、肌と、身のまわりの愛するものを取り上げ、その美や、独特の美を生み出すのに欠かせないはかない光線の具合、ご自身の耳目、鼻、舌、指先で捉えた感触、美に包まれた時の快感などを、それは丹念に言葉にしていらっしゃいます。
圧倒されるそのご自分なりの美、愛、思い。
それは厠、つまりお手洗いにもおよびます。

日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。

厠についての考察をされるだけでは終わりません。
さらには、ご自身の感性に基づき、なにが味なのか、どのように自分の耳目や心を楽しませてくれるのかを述べ、「物のあわれを味わうのに最も適した場所」という自論まで展開されます。

私はそう云う厠にあって、しと/\と降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたゝり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつゝ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おり/\の物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。

ここまでおっしゃられると、「はぁ、それでは今度お寺さんに行った時には、気にしながら厠をお借りしてみましょうか」なんて思うようになっている自分がいます。

谷崎はご自身で「私は建築のことについては全く門外漢である」とお書きになっています。
だからといって、お口を閉じられるなんてことは、まったくございません。
自分が何に魅了され、どう愛おしく思い、どれだけ自分の人生を潤しているのか。
それを語るに必須の条件は知識量ではないからなのでしょう。
谷崎は、ご自身の体験の中で、ご自分の感覚器が捉えたことや、ご自分の精神に与えられた影響をつまびらかに語っていらっしゃいます。
ご自分の肉体的精神的実感を土として萌え出た言葉は、その人の感性や美学、価値観を表現するものであり、その人しか発し得ないものといえましょう。
たとえ、それが他の方にとっては眉をひそめるようなものであっても、他者が否定することなどできはしません。

人にうっとうしく感じられないか、嫌われないかなんてまるで意に介さないかのように、谷崎はさらにねっちりねっちりと、愛するものについて語ります。

漆器と云うと、野暮くさい、雅味のないものにされてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていゝ。(中略)派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。(中略)つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろ/\の部分がとき/″\少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおり/\風のおとずれのあることを教えて、そゞろに人を瞑想に誘い込む。(中略)漆器は手ざわりが軽く、柔かで、耳につく程の音を立てない。私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよ/\した肉体を支えたような感じでもある。

この語りに込められているものは知識ではございません。
愛でしょうか、美学でしょうか、いずれにしてもとても個人的なものであり、だからこそ谷崎自身をあらわすものに他なりません。
そんなお話には思わず引き込まれ、語られる対象について関心が向き、また語る人も生き生きと魅惑的に感じられます。
『陰翳礼讃』に取り上げられた事物を面白く思うとともに、普段は隠れているような腹の底の深いところの感覚を語り手と交流させているような感覚が心地よく、いつの間にか谷崎に魅了されていることに気づいてしまいました。

思うに、ご自身の五感を震わせる愛するものを、情感のうねりを込めて語る人というのは魅力的です。
自分のまわりをていねいに見回してみると、思った以上にそんな方々があちらこちらにいらっしゃるではありませんか。
たとえば、お箏(琴)とお三絃(三味線)のお師匠、経営学などその道の教授、伝統芸能ジャーナリストの先生、ヴァイオリン愛好家の先輩……。
共通点は、愛する対象に忠実であること。
自分自身がその世界に飛び込み、ご自分の五感をフル活用しながら吸収したり、実践したり、発信したりしながら楽しんでいること……でしょうか。

『君の国ではどんなアートがおすすめ?』
この問いが、知識量や資格を試されているのではなく、ましてや正解を述べることを求められているわけではないのなら、私も少しは自分なりに語れるかもしれません。

私が愛するものは、ゆったりと穏やかな時が流れしっとりとした空気が満ちた畳のお部屋で遊び奏でるお箏とお三絃となりますでしょうか。
私のつたない腕前はさておき、お師匠のお宅に伺いお稽古をつけていただくひと時の贅沢さといったらありません。
まず両手をついてご挨拶を申し上げますと、たおやかにお座りになったお師匠が労いの言葉をくださいます。
それから楽器のお調弦をしまして、いよいよお稽古が始まります。
私が間違ってばかりおりますと、お師匠が「よぉくご覧になってね」と笑みを浮かべられ、ふっと何でもないことのようにサラリサラリとお手本をお弾きくださるのです。
瀬戸内は鞆の浦の穏やかな波のようにトロンとしたお箏の音色の美しさ、お三絃のサワリという倍音を含んだ雨だれのような響きが鼓膜を震わせた時の心地よさ……。
雨水や風の音、鳥の声、花や葉の香りが結晶化して室内に散りばめられたかのように、清浄さがそこに立ち昇り、心に沁みわたり、私を満たしていきます……。

(柳 美里)

陰翳礼讃』中央公論新社(ほか多数)
青空文庫『陰影礼賛』

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