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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

今月の1冊

2019年07月09日

斉須政雄『調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論』

調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論
著:斉須政雄 ; 出版社:幻冬舎(幻冬舎文庫) ; 発行年月:2006年4月; 本体価格:600円

「同じようにやっても、同じようにできないのが料理。」

10年以上前に、仕事でご一緒した有名イタリアンのシェフから受けたひと言に、当時の私は衝撃を受けました。

「本店での茹で時間と、ここ(丸の内)での茹で時間は違う。関西と関東で、お水の硬度が違うので同じようにゆでても同じようには仕上がらないんだよ。それと同じで、その時の温度・湿度によってもゆで加減は変わってしまう。その加減ができてこそ、プロの料理人。」

この方は食材や道具だけでなく、水にもそれほどの気を配っているのか、と。

時は流れ、自分が現在担当する「クロシング」で、料理研究家の土井さんが語っていた「早く調理しようとして、強火にすると、お水でさえ傷がついてしまう。食材を見て、どんな加減が良いか、こころをはたらかすことが料理では一番大事。」という一言に、私の中の大昔の記憶が呼び覚まされました。

あの時の言葉が、なぜこんなにも記憶に残っているのだろう。
初めてすべてを任された仕事だったから?
プロの料理人の凄みを直接感じた言葉だったから?

偶然手に取った本が、奥に眠る思いに気付かせてくれました。

その本は「コート・ドール」斉須政雄シェフの『調理場という戦場』。
三田にある有名フレンチレストラン「コート・ドール」のオーナーシェフ斉須さんのこれまでを振り返る形で綴られた本です。具体的にはフランス滞在12年間を含む6店での修行経験やそこで学んだこと、考えたこと、そして日本に帰国し、料理長としてオープンした「コート・ドール」に掛ける思い、拘りなどが、料理人目線で1つ1つ丁寧に紹介されています。

  • 経験を積んだ料理人の良さは「火をいきり立たせずに使う」もの。
  • 味は「加えるもの」というよりは「湧き出るもの」。飾り立ては、持ち味の一歩か二歩手前で抑えるべき。
  • どんなに便利な道具でも、昔の道具にしか出せない味がある。道具に頼り、自分の料理の幅を狭めることはあってはならない。
  • 厨房の清潔さは大前提として必要なこと。清潔さを保つには毎日の手入れが欠かせない。
  • 一分一秒の戦いとなる厨房で、作業の妨げとなるような導線は命取りである。
  • 自分が良いと思った料理でも、お客様に満足されない料理では価値がない。

最初は、10年前にご一緒したシェフの方々から受けた印象的なコメントに重なるような、斉須さんの力強い言葉の数々に、当時、緊張しながら有名シェフのお話を伺った日々を思い出し、懐かしむように読んでいました。

導線の話は、中華料理のシェフが同じような話をしていたな。ギャルソンを敬う姿勢はフランス人シェフのあの方と同じ。清潔さについてはどのシェフも気にされていたな、と。

しかし、この本に惹かれた理由はそれだけではありませんでした。斉須さんがエピソードの紹介とともに語られる仕事への思いに共感することが多くあったのです。

  • 一つ一つの作業が丁寧にできるようにならなければ、大きなことはできない。
  • 人と同じようにできるためには、やり過ぎぐらいにやらないといけない。
  • まわり道をした人ほど多くのものを得て、滋養をふくんだ人間性にたどりつく。
  • 実を結ばなかったアイデアが山ほどあっても、一つ一つが後になって繋がることがある。そのためにも、トロトロノロノロとした道のりでも、1つ1つ試していないといけない。

言葉も文化も異なるフランスでの修行時代に、寝る間も惜しんで積み重ねてきた斉須さんのこうしたひたむきに仕事に向き合う姿勢は、私が大切にしたいと感じてきた仕事への思いと重なるものばかりでした。

思い返すとシェフ達にインタビューしていた社会人3年目、当時の私は1人前になりたい、お客様に喜ばれる仕事がしたい、不器用な自分ができることは誰よりも時間をかけて考え、自ら手を動かし、やってみることと考え、がむしゃらに目の前の仕事をこなしていました。

当時受けたシェフの一言は、目の前のことをこなすだけで精一杯になっていた自分に「まだ見えていないところがある。やれること、目を配るべきことはもっとあるのだ」ということを気付かせ、身を奮い立たたせてくれたのだと思います。転職した今の職場でもそれは同じ。あまりの不器用さに、何度も周囲に叱られ、自分でも不甲斐なく思うことも多々ありましたが、それが自分で、しばらくの間、そうではないやり方がわりませんでした。

その後、2人の子供が生まれ、必然的にそんな自分の働き方からの脱却せざるを得なくなり、強制的に働き方を変えるよう努力してきました。拘りが強く、自分が良いと納得するまで手が抜けない自分にとって、これは良い機会、もっと効率的に、抜けるところは抜いて、一定のパフォーマンスを上げる仕事の仕方にシフトすることも大事。自分が苦手とするところを鍛える、絶好のチャンスを今もらっているのだと、考えながら、働いてきました。

しかし、今回、斉須さんの本を通じて、やはり自分は細かいところに目を配り、一つ一つの作業を大切に、ひたむきに仕事に向き合う姿勢が好きで、それを大切にしたい人間なのだと、再確認させられたように思います。

しばらくはこの状況が大きく変わることはなさそうにないですし、育児が一段落した時、また自分の働き方を取り戻したいと思うかどうかはわかりません。しかし、環境が変わってやり方を変えても、自分のスタイルに拘ってしまう自分、それこそが私。変えることができない自分の姿なのだなと、自分自身を気付かせてくれた、貴重な一冊でした。

(鈴木ユリ)

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