今月の1冊
2019年11月12日
宇山 卓栄『「民族」で読み解く世界史』
日本人とは何か
私は日本人である。根拠は単純明快。日本という国で、日本人の両親から生まれ、日本で育ち、日本文化に慣れ親しんでいるからだ。付け加えれば、日本語が母語であり、日本の国籍も持っている。私が日本人であることに関して否定する人、否定できる人はまずいないだろう。日本男児の大和魂を持っていないと言われると困ってしまうが、仮に持っていないとしても日本人でないとは言えないだろう。
さて、テニスの大坂なおみ、バスケットボールの八村累、柔道のベイカー茉秋、陸上のサニブラウン・ハキームといったハーフのスポーツ選手の活躍をたびたび耳にするようになった。日本人初の快挙!とメディアでたびたび話題になる。だが、彼らが活躍し、そういったニュースが増える一方で、彼らを日本人とすることに違和感を持つ人が増えているようだ。Twitterやネットニュース、私の周りでも「やっぱり純粋な日本人じゃない方が強いな」と、彼らを”純粋な日本人”ではないと考える人が何人もいる。中には日本人であるとすることに疑問を抱いている人もいる。
私と彼らの違いは何であろうか。私が日本人である根拠に、出生地・血筋・育った場所・慣れ親しんでいる文化・国籍を上げた。日本で生まれ育った日本人と外国人のハーフで活躍している選手と私との違いは血筋や見た目くらいのものである。血統は見た目でわからないはずなので、彼らを”純粋な”日本人だと感じにくい原因は見た目が異なることから来るのであろう。それではブータン人の場合はどうであろうか。日本から遠く離れた国に住むブータン人ではあるが、DNAが日本人とほぼ同じで見た目もそっくりだという。そんなブータン人の両親から日本で生まれ、日本で育った人は日本人なのだろうか。国籍、慣れ親しんだ文化、見た目は同じである。それとも異なる民族の血筋であるため、やはり日本人ではないのだろうか。
民族的同一性を重視する日本人
そんなことを考えたことがあったからだろう。本屋で時間を潰していたとき、『「民族」で読み解く世界史』というタイトルが目についた。恥ずかしい話、学生時代に歴史は中途半端にしか勉強してこなかった。理系に進むから必要ないと言い訳をし、赤点で再試だったこともある。社会人になり、歴史を勉強し直そうかと思ったことはあるが、たまに歴史モノの映画を見るくらいであった。何となしに手にとって気になる箇所を数ページ読んだ。
ほとんどの日本人は、身体的特徴が日本人と離れている人や日本語がネイティブではない人を自分達とは違う存在だと感じてしまうという。著者の宇山卓栄氏によると、これは民族的同一性を重視する日本人にとってごく当たり前の感覚だそうだ。海に囲まれた島国で他国との国境が明確であったこと、他国に支配されずに常に独立を保ってきたこと、移民の受け入れに消極的であったことなど様々な要因があり、日本人は単一民族を維持してきた。そのため日本人の心の中には”日本人とはこういうものだ”というステレオタイプができあがってしまっているのだそうだ。だからこそ日本語を母語としない日本人や、顔立ちや肌の色が典型的な日本人とは異なる日本人に違和感を持ってしまうというわけだ。
とは言っても、島国で単一民族を維持してきた日本が特別のように感じるが、実は多くの日本人はある意味では”純粋な”日本人でないという調査結果があるという。大多数の日本人は4世紀から7世紀にかけて朝鮮からやってきた渡来人との混血であり、最初に日本に住んでいたという意味での純粋な日本人は北海道のアイヌの人や沖縄の人たちということである。渡来人はアイヌや沖縄までは行かず、元日本人と言える血筋が北海道と沖縄に残った。その証拠に彼らは遺伝的に近縁であることが遺伝ゲノム解析でわかったそうだ。
考えてみると私のイメージする日本人は顔の薄いタイプの日本人であった。沖縄に旅行に行くと「やっぱり沖縄の人は違う、自分とは違う存在だ。」と考えていたことに気がついた。なるべく先入観を持たないようにしていたつもりだったが、やはり私もどこかで日本人はこういうものという思い込みを持っていた。これは面白いとその場で本を購入した。
「民族」から読み解く歴史
私たちが普段使う日本人、アメリカ人のような○○人という言葉には、「人種」、「民族」、「国民」という3種類の異なる視点での分類を含んでいる。「人種」はDNAなどの遺伝学的、生物学的に導かれるカテゴリーであり、その分類は国をまたぐ。例えば日本人はモンゴロイドという人種に分類されるが、中国人や韓国人、東南アジアの人達も同じモンゴロイドである。先述の通り、日本人とブータン人とは遺伝的にほとんど変わらないそうだ。
一方で「民族」による分類は言語、文化、慣習などの社会的な特徴によって導き出されるカテゴリーである。日本のように単一民族で国家が成り立っているケースもあるが、むしろアフリカの部族のように1つの国にいくつもの民族が存在しているケースの方が多い。また、グローバル化が進み、民族という括りに当てはめられない人も増えてきている。
「国民」は国家が定める法や制度を共有している集団を指す。典型的な例がアメリカである。人種のサラダボウルと呼ばれるほどに多種多様な民族、人種の人々が集まり、一つの法を共有することでアメリカ人となる。このように同じ○○人という言い方でもその集団が形成された歴史的背景によってニュアンス、条件、定義が大きく異なるのだそうだ。
その3つの中で歴史を知る上で特に重要な要素が「民族」であり、民族には血統・血脈と切り離せない相互不可分の関係を持っていると氏は言う。民族というキーワードを用いることで、国の成り立ち、政治の方針、戦争の原因など様々なことに説明がつくのだと言う。インドでのカースト制の起源、非アラブ人の不満を利用したアッバース朝、ユダヤ人への迫害、今も様々な対立を生む白人優位主義、ヨーロッパ各国の国民性の違いなど例を挙げればきりが無い。
具体的に一例を挙げてみよう。中国が宋の時代に一般化したという中華思想には、「高度な文化を擁する漢人が哀れな周辺蛮族へ施しを恵んであげる寛容さが大切だ。」という考えがあるそうだ。多数派の漢人の支持を集める施策でもあったが、実のところ主たる目的はモンゴル人の契丹族に攻め込まれないようにするために賄賂を渡す口実だったとのことである。宋王朝は文治主義という非軍事外交で異民族と宥和していく政策で知られているが、言ってみればこれは中国王朝が異民族に和平を請う政策であり、その屈辱をごまかし正当化するための思想が中華思想だったのである。
中国は最初の統一王朝である秦の時代から、北方異民族であるモンゴル人に攻め込まれ、ときにはモンゴル人の王朝ができることもあった。中国国家統計局によると現在の人口構成の92%が漢人とのことであるが、モンゴル人や他の民族との混血が進み、純粋な漢人と呼べる人はいないそうだ。同じように世界中で民族の交わりは進んでいる。日本は渡来人との混血以降、他民族との混血は無かったが、ますますグローバル化が進むこの時代、確実に日本に外国人の血が入るようになってきている。交通網の発達で海外への行き来は容易になり、物理的な壁はなくなった。外国人労働者の受入数は年々増加している。少子高齢化により労働力が足りなくなり、移民を受け入れる日が来るかもしれない。アラサーと呼ばれる私の世代は上の世代と比べると国際結婚への抵抗感はだいぶ薄い。おそらくもっと下の世代ではもっと抵抗感はないのであろう。外国人の血が入る流れはいったん進むと不可逆的に、さらにドミノ倒し的に進むはずだ。もう単一民族であることを日本民族の証とする枠組みは限界になってきていると言える。
私たち日本人は日本人としてのアイデンティティーを民族でない別の何かに見つけなければいけない時が来る。それは日本の文化かもしれないし、日本人の気質なのかもしれない。アメリカ人がアメリカ人であることを誇りに持っているように、日本人であることそれ自体をアイデンティティーにするのかもしれない。いずれにしろ、今が日本民族としての過渡期であり、私たちはその変化に対応していかなければならないのだと思う。そんなことを考えさせられる1冊であった。
(塚田卓満)
『「民族」で読み解く世界史』日本実業出版社
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