今月の1冊
2009年07月14日
『山県有朋 愚直な権力者の生涯』
この本は、山県有朋の生涯を詳述した力作である。
それは、死ぬまで「力の秩序」を信奉した政治家の人生であり、最下級武士から最高権力者に登り詰めた「立身出世」の具現者の一生であり、幾度かの失脚の危機をくぐり抜け、その都度復活を果たした「七転び八起き」人間の旅路である。
著者の伊藤之雄氏は、明治維新から現代までの政治家の伝記をライフワークとする歴史学者で、他にも明治天皇や伊藤博文、西園寺公望の伝記を著している。地味とは言わないが、司馬遼太郎の小説では、けっして主役として扱われることのなかった人物に光を当てているところが面白い。
「歴史はヒーローだけが作るものでない」
著者のそんな主張を感じるのは私だけではないだろう。
さて、山県有朋と聞いて、皆さんはどのようなイメージをお持ちだろうか、中学生の娘の歴史教科書には山県の記述はほとんど存在しない。大河ドラマでも存在感のある役者が演じることはまずない。
「名前は知っているけれど、よくわからん」
それが現代人の一般的な山県イメージであろう。
少し歴史に詳しい人であれば、「陰気」「狡猾」「策謀家」と答えるだろう。
「山県が作った日本陸軍が太平洋戦争を導いた」と指摘する人も多い。最近では、渡辺喜美氏が「山県有朋以来の日本の官僚制度を変える」と気炎を上げたことも記憶に新しい。
司馬の『世に棲む日々』や『翔ぶが如く』に登場する山県も、機を見るに敏で、時代の流れに乗ることに長けた、ずるがしこい人間として描かれている。
山県が50年に渡って日本陸軍の実権を握り続けたことも事実である。文官任用令という現在のキャリア官僚制度の原型が制定されたのは、山県が総理大臣の時であった。
しかし、後世の人物評価というものは、一人の人間の立体的人物像を、ある一面から照射したに過ぎない。人物像のネガをポジに変換すれば、「陰気」「狡猾」「策謀家」というイメージは、「慎重」「思慮深い」「戦略家」という印象に変わるかもしれない。なにより、萩の下級武士町で生まれた名もない青年が、日本の近代化を推進する要人として、50年以上も権力の座に留まっていたという事実が、山県有朋の巨大さを物語るのではないか。
この本は、そんな人間 山県有朋の実像を、バイアスを取り除いて記述しようと努めている。
「力の秩序」の信奉者
山県が、「陰気」「狡猾」「策謀家」と称される理由は、彼が「力の秩序」の信奉者であったことに起因する。「自由」「民主」「個性」「創造性」etc. 現代社会に生きる私達が無条件に受け入れている普遍的価値観に対して、山県は死ぬまで不信感を持ち続けた。自由民権運動を弾圧し、政党政治を嫌い、教育勅語や軍人勅諭を制定して、民衆に考えさせることを否定した。
一方で、陸軍の実質的な創設者となると、長州閥と呼ばれる子飼いの軍人を使って権勢を振るい、その力を背景にして、山県系官僚と呼ばれるテクノクラートを掌握していった。日本の近代化には、軍事力の強化が第一義であると信じ、その障害となる民衆運動や政党活動、議会の動きを、時に弾圧し、時に骨抜きにし、時に出し抜いていった。それを、軍国主義、強権政治、集権国家体制と呼ぶことは出来るが、彼がそこまでしてやり抜いたからこそ、明治日本の近代化は実現したとも言える。
維新からわずか40年で日露戦争に勝ち、極東の遅れた島国であった日本が、帝国主義国家群の一員に加わるまでの急成長は、山県を抜きにしては語ることは出来ない。現代中国の隆盛の「陰の記憶」として、天安門事件があるように、国家が急激に成長する段階で、時に民衆の声を押しつぶすことは歴史が教えてくれる。この時代の日本には、山県の信じた「力の秩序」が必要だったのかもしれない。
「立身出世」の具現者
山県有朋の出自についても語られることは少ないだろう。
彼は、長州藩に仕える「中間」と呼ばれる下級武士階級に生まれた。武具の運び役や代官所の雑用係を担う最下層の武士である。母親を4才で亡くし、父親も維新前には死んでいる。
吉田松蔭の松下村塾に入塾するが、その2ヶ月後に松蔭は投獄されてしまう。高杉晋作が作った奇兵隊で頭角を現し、戊辰戦争を経て、維新政府の中枢に収まることができた。この時期の山県は、高杉、木戸、西郷に才覚を認められ、彼らの引きを得て出世の階段を登っていった。
西南戦争後、維新の第二世代が台頭する時代になると、同世代でありながら一歩前を歩いていた伊藤博文や井上馨らが山県の支援者となった。山県のまじめで着実な仕事ぶりが評価されてのことだったという。この時代の彼は、後に見られる「策謀の人」ではない。目の前の課題に集中し、なんとしてでもそれを実現しようと邁進する仕事人であった。
彼が、実質的な最高権力者として日本政治の実権を握るのは、1900年代に入ってからだと言われている。彼を引き立ててくれた偉人は鬼籍に入り、同世代の先行者 伊藤、井上等も権力闘争への意欲を失いかけた頃に、維新の志士の最終走者としてバトンを握ったのが既に60才を越えていた山県だったのだ。
主役になるまでの時間が長かった分、山県はしたたかで、強靱になっていた。自分の理想とする陸軍を核にした中央集権国家体制を守り抜くために、敵対する相手を容赦なく叩き潰していった。
時に闘う相手が、盟友であり恩人でもあった伊藤や後継者と見込んだ桂太郎であったとしても、決断が鈍ることはなかった。
1922年88才で亡くなる直前まで、元老として総理大臣を選ぶ実権を持ち、隠然たる権力を振るい続けて死んでいった。太閤秀吉や田中角栄を彷彿させる「立身出世」物語である。
「七転び八起き」の人生
山県が秀吉や角栄と異なるのは、彼の出世が一本調子ではなかった点ではないか。致命的な危機を何度も経験し、その都度息を吹き返している。瀬戸際に強い人間である。
明治の黎明期、徴兵制と陸軍創設を急ぐ山県は、薩摩を中心にした武士階級の反発を受けた。「戦(いくさ)は武士の役割」と信じる彼らに山県の主張する庶民からの徴兵制など到底受け入れられるものではなかったのだ。折しも山県は、脇の甘さから疑獄事件を起こし、軍トップの座を辞任せざるを得なくなる。徴兵制の考案者であった大村益次郎のように、ここで斬られてもおかしくなかった。
この危機を救ってくれたのは西郷だった。西郷に恩義を感じる山県は、その後の征韓論争では、日和見主義を取った。征韓論に賛同はしないが、西郷への義理を重んじ、意図的に論争から身を遠ざけたのだ。ところがこの態度を、長州のドン木戸孝允に非難され、出世競争から大きく遅れることになる。
雌伏の数年間に耐えていた山県を日の当たる世界に戻してくれたのは、伊藤博文であった。日清戦争では第一司令官として総指揮を取りながらも、戦争の最中に病に倒れ、戦線離脱を余儀なくされる。一番大切な時の不始末に非難が集中した山県を、暖かく庇護してくれたのも伊藤・井上の長州同世代人であった。
権力に登り詰めるまでの山県は、幾度となく危機に遭遇した。しかも「力の秩序」の人であったので、政党政治家や言論人には評判が悪く、逆風を一層強く受けることになった。しかし、彼は逆境の時も心折れることなく、静かに力を蓄え、陸軍内部の整備や山県系官僚と呼ばれる能吏との関係構築に腐心し、時が来るのを待つことが出来た。
維新の英雄達は、必ずしも逆境には強くない。高杉は早世し、大久保・伊藤は暗殺され、木戸は心を病んだ。西郷は維新後に意欲喪失状態に陥った。ただひとり山県だけがしぶとく生き残り、結果として60才を越えてから権力を掌中に収めた。
第一次世界大戦後、普通選挙制度が制定され、大正デモクラシーの時代が到来した頃。山県有朋の力は衰えを見せ始める。彼の悲劇は、後継者として育ててきた長州閥の陸軍政治家達(桂太郎、寺内正毅等)が、やがて自分と距離を置き、裏切っていったことにもある。
彼が生涯の敵として、抑圧してきた政党政治や民主化の波は、山県をもってしても押さえ難く、日本は時代の転換期を迎えつつあった。
死の一年前、山県は、あたかも辞世の句のような歌を残している。
「ながらえば、またいかならんすき(過ぎ)し世は、おも(思)ひの他のことばかりにて」
年齢とともに、権勢の衰えを感じはじめた山県の寂しさが滲み出ている。
1922年2月、山県有朋は88才で亡くなる。
日比谷公園で執り行われた葬儀には、国葬として1万人の参加者を予定した巨大なテントが用意されていたが、参列者は僅かに1千人。しかも軍人の姿ばかりが目立ったという。民衆の敵、ジャーナリズムの敵を貫いた稀代の悪役らしい最期だったのかもしれない。
(城取一成)
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