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夕学レポート

2009年09月08日

山本博文「徳川将軍と大奥」

講演日時:2009年7月22日(水)
山本 博文
東京大学史料編纂所 教授

山本 博文

昨年、高い視聴率を記録したNHKの大河ドラマ『篤姫』では、江戸幕末の動乱の中、13代将軍家定の正室、すなわち「御台(みだい)様」であった篤姫や、大奥の女性たちが活躍する姿が描かれました。今回、山本氏は、篤姫の話を織り込みながら、大奥の仕組みや、大奥と将軍や大名らとの関係についてわかりやすく説明してくださいました。
「大奥」と聞くと、一般に私たちは、‘将軍を取り巻く女たち’というイメージを持つかと思います。しかし、「大奥」の役割を煎じ詰めていえば、将軍、および御台様や側室、将軍の生母などの生活を支えるために存在した「役所」です。ですから、大奥で働く女性たちは、幕府に雇われた「公務員」と言えます。

また、大奥には3000人ほどの女性がいたという話がありますが、これも事実と照らすとやや誤解を生む表現です。山本氏によれば、御台様には70-80 人、将軍には200人ほど、側室や生母などにもそれぞれ20-40人の女性が直接仕えていました。この女性たちは幕府に雇用されるくらいですから、それなりに身分も高い旗本・御家人や公家の娘たちなどで、彼女たち自身もまた、相応の数の家来(女中など)を抱えていました。
たしかに、大奥で働く女性の数に、彼女たちが抱えていた側近の人数まで加えると、全員で3000人ほどの規模になることもあったようです。しかし、大奥という役所の中で、幕府に雇われた「公務員」が3000人もいたというわけではないのです。

また、将軍の正室のほとんどは、京都の親王家や公家から迎えられたため、大奥には京都風の言葉遣い、立ち居振る舞いを身につけた女性たちがいる一方、武家、つまり大名家からやってくる女性も数多く働いており、貴族と武士の文化の違いがもたらす摩擦や対立が、大奥では実際起きていたようです。風情についても重々しいのが大奥風で、大名家はきらびやかな町人風のものを好むというようにギャップがみられたということです。

大奥は、総取締役として「御年寄」と呼ばれる女性が統括していました。大河ドラマ『篤姫』では、滝山がこの御年寄でした。また、将軍の身の回りの世話をする女性たちのことは、「御中臈(おちゅうろう)」と呼ばれ、6-8人ほどいました。将軍はこの中から気に入った女性がいれば、側室に迎えることができました。逆に言えば、将軍といえど、誰でも側室に迎えるというわけにはいかなかったのだそうです。そして、側室に赤ちゃん、すなわち次期将軍候補となりうる子どもが生まれると、「御部屋様」と呼ばれるようになります。文字通り独立した部屋が与えられたのです。さらにその子どもが将軍になると「将軍生母」としての扱いを受けました。

山本氏によれば、こうした大奥の仕組みは、江戸時代後期になればかなりシステマチックなものとなり、確立された制度の下での運営がなされていたそうです。身分の上下も明確になり、大奥において最も格が上なのは、将軍の正室、すなわち嫁である「御台様」でした。将軍の生母、つまり姑よりも嫁のほうが偉かったのです。ですから、昨年の大河ドラマでも描かれていた「嫁(篤姫)をいびる姑(本寿院)」という、現代にもよく見られる嫁姑の確執という構図は、大奥では現実には起こらなかっただろうと山本氏は指摘していました。実際、現将軍が死去した時、幕府の最高責任者となる立場にあったのは、その正室である御台様であり、次期将軍就任後も相応の力を発揮したのも当然のことでした。

さて、山本氏は、幕末の資料(大奥に仕えた女性の回顧録など)を元に、篤姫や当時の主要人物についての「史実」を紹介してくれました。資料によれば、家定と篤姫の仲は実際に良かったようです。また、家定はあまり女性好きではなく、側室は、お志賀という女性一人だけでした。ただし、お志賀は気の強い女性だったようで、正室の篤姫にも嫉妬するほどでした。このため、がちょうを追いかけるのが好きであったと言われるように、幼児的な気質を残していた家定は、気丈な正室と側室の2人の女性の間で、おとなしくしているしかなかったようです。

家定死去後、篤姫は天璋院と呼ばれるようになりますが、14代将軍となった家茂(幼名:慶福)を気に入っており、彼を気遣っている様子が資料に残っています。嫁・姑の関係になる家茂の正室、和宮との関係も良好でした。一方、慶喜とは心を通い合わせることができないことを嘆いています。また、桜田門外の変で暗殺された大老、井伊直弼は、一般には悪人のイメージが強いですが、資料によれば、彼は、家茂を大切に思って骨を折っていたと、大奥内では高く評価されていたことがわかっています。
そして、官軍隊長、西郷隆盛に宛てた手紙の中では、徳川家に嫁に来て、徳川家の墓に入ることになる自分の存命中に、徳川家に万が一のことがあれば、あの世で家定にあわせる顔がないと、日夜悲嘆していると書いています。この手紙では、先に逝ってしまった夫、家定に寄せる天璋院の正直な気持ちが吐露されていると山本氏は感じているそうです。

今回の講演では、越前の福井藩主 松平春嶽に仕えた中根雪江の著した『昨夢紀事』、鹿児島県資料の『斉彬公資料』、家茂付中臈箕浦はな子が著した『旧事諮問録』などの資料を引きながら、大河ドラマに描かれていた幕末の歴史上の人物の素顔に触れることができ、歴史に対する興味をおおいにかきたてられました。

主要著書
天下人の一級史料 秀吉文書の真実』柏書房、2009年
将軍と大奥-江戸城の「事件と暮らし」』小学館、2007年
島津義弘の賭け』中公文庫(中央公論新社)、2001年
殉死の構造』弘文堂、1994年(2008年講談社学術文庫)

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