今月の1冊
2021年06月08日
田中 重人『トトとコト』
9年前まで、慶應MCCに田中君という優秀なサービススタッフがいた。芸術家としての顔も併せ持ち、明け方までの創作活動の後、涼しい顔であっという間に仕事を片付けてしまう。合間に放つ関西弁のギャグの潤滑油効果も相まって、当社になくてはならない存在であった。行動力も抜群で、東日本大震災の時には、余震さめやらぬ中、通勤用の自転車で御徒町まで飛び出し、リュック一杯に非常食を買い込んできてくれた。阪神大震災を経験していた彼には、常に備えが出来ていたのである。
2012年、田中君は惜しまれながら当社を退職し、神山バレーとして注目されていた徳島県神山町で、地域活性化のための仕事に就いた。翌年には素晴らしい伴侶を得て、翌々年に7DKの古民家に引越し、2015年には愛娘の「こと」ちゃんが誕生した。ここ数年のやりとりは途絶えていたものの、彼の人生は順風満帆のように見えた。
昨年末、一冊の詩集が送られてきた。田中君が「詩人:田中重人」として我々の前に姿を現したのだった。『トトとコト』というタイトルの中に編まれた短詩が37篇。ことちゃんの14の挿絵が花を添えている。
全編を通して伝わってくるのは、ありきたりの表現になってしまうが、「日常にある幸せ」である。家族への深い愛情と、神山の大自然への畏怖や憧れが紡がれている。行動範囲はせいぜい自宅から半径2キロ以内といったところだろう。近所の草むらや川のほとりを散策し、妻と戯れ、娘の無邪気な質問に考えさせられ、寝る前や明け方には、布団でまどろみながら外の音に聞き耳をたてる。
ひらがなを多用し大胆に削り取られた言葉は、却って読む者の想像力をかきたてるようだ。文字とシンクロするように、ふわっと情景が浮かんでくる。
ばりばりと仕事をこなし、興にのると文学や哲学を熱く語っていた田中青年が、こんなにも優しい目線の世界観を持っていたとは。私は驚愕し、5年という年月にしばし思いを馳せた。
しかし、現実はそう生易しいものではなかった。巻末に差し込まれていた「あとがき」によると、彼はこの間、パニック障害と双極性障害をほぼ同時に発症し、苦しみに耐え続けていたのだ。そんな彼を掬い上げ、短詩の世界にいざなってくれたのが、高村光太郎から絶賛された早逝の詩人、八木重吉だ(注1) 。代表作の『素朴な琴』は、不朽の名作として名高い。(注2)
余程私淑しているのであろう。本書には、八木重吉そのものを詠んだ詩がある。
『しのほん』(注3)
とおちゃん なんの ほん よんでるん?
し の ほん
だれの?
やぎ じゅうきち
しらん
しらんの? じゅうきっつぁん
しらん
ことちゃんのばっさり加減も痛快だが、ここで注目したいのは「し」が、「死」「師」「詩」の三つの文字に変換可能な点である。著者が一心に読んでいたのは、結核を患い、生きる意味や死への恐怖を正直に言葉にしていた八木の遺作かもしれない。あるいは、美しいものを求める透徹とした視線が心を打つ処女詩集だろうか。著者が師と仰ぐ八木もまた、強くあるべしと信じていた自分を捨て、生きること以外をそぎ落とすしかない状況の中で詩を生み出していた。その生き様や研ぎ澄まされた感性が、著者と共振したのだろう。
もう一人、彼の短詩に「木蓮賞」を授け、背中を押してくれた恩人がいる。批評家、随筆家であり詩人でもある若松英輔だ。氏の主催する「読むと書く」というサイトに受賞作が掲載されたことで、著者の詩は多くの人々の目に触れることになった。紹介しよう。
第三回木蓮賞受賞作『たやさぬように』(注4)
つよくいきることが
あなたをさいなみくるしめるなら
よわくよわくできるだけよわく
よわくいきることはおきびのような
ちいさなこころのほのおをたやさぬことだから
長い時間をかけてようやく安息の地に辿りついた著者の静謐な心持ちが、同じような境遇にある全ての人々をいたわり、癒してくれている。
『トトとコト』の世界は、「まいあがれ」という作品から始まる。親子の未来を象徴しているような、希望に満ちた作品だ。
『まいあがれ』(注5)
ちょうちょうを
あわせた手のなかにかくしたことが
そらへむかって 手のひらを
ぱっとひらいて
かけてゆく
著者が捕まえたモンシロチョウを壊れ物のようにそっと掌の中に包んでいることちゃんの真剣な表情や、殺している息遣いまでが伝わってくる。そして、解放と共に一斉に色づく生の息吹。勢いづいた木々や草花が、駆けていくことちゃんと共に躍動している。燦燦と降り注ぐ太陽の光、鮮やかな水色の空、放たれた真っ白なちょうちょうのコントラストも素晴らしい。きっと蝶は、はしゃいでいる彼女の周囲に舞い戻ってきて、一緒に春を満喫したに違いない。
いや、もしかすると、ちょうちょうは著者のメタファなのかもしれない。
5年間自宅で苦しんでいた彼が、愛娘の力を借りて社会に復帰出来たことを感謝する、歓喜の詩とも取れる。いつの日か田中重人に尋ねてみよう。
本書は荻窪の知る人ぞ知る書店、「Title」に置かれている(注6)。書の目利きである辻山店主の目に留まり、10,000冊の中の1冊に選ばれたことは大きな勲章だ。
正面から入って斜め左側、二階にあがる階段のたもとにあるZINE(=リトルプレス~自費出版作品)のコーナーでぜひ手に取っていただきたい。群青色の太い直線の上に7つの花びらが点在する、「こと画伯」の表紙が出迎えてくれるだろう。
(注1)「八木重吉の詩をおもひ出すのはたのしい。たのしいと言っただけでは済まないやうな、きれいなものが心に浮かんで来る。」
『詩人時代』1936年2月号(現代書房)
~八木重吉の詩について~高村光太郎
(注2)【素朴な琴】
このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしづかに鳴りいだすだらう
『貧しき信徒』八木重吉著(青空文庫)
(注3)「トトとコト」26頁
(注4)「トトとコト」37頁 「木蓮賞」受賞作品
(注5)「トトとコト」3頁
(注6)本屋「Title」https://www.title-books.com/
(黒田 恭一)
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