ピックアップレポート
2010年12月14日
田村 大「人間中心イノベーションとは~ビジネス・エスノグラフィが探求すること~」
田村 大
株式会社博報堂イノベーション・ラボ上席研究員
東京大学 i.school(イノベーションスクール)ディレクター
イノベーションとはなんでしょうか。技術革新という訳語が最初に思い出されるかもしれません。ユーザニーズに基づく価値づくりをイメージされる方もいそうですね。一方、そのどちらにも拠らない、従来存在しなかった市場の創出をゴールに持つ第3のイノベーション戦略を、私は「人間中心イノベーション」と呼んでいます。換言すれば、「人間の知覚、習慣、価値観に不可逆の変化をもたらす価値の提供」ということになります。
その具体例として容易に思い出されるのは、米・Apple社でしょう。Appleは、iPod/iTunesをはじめ、MacBook Air、iPhoneなど、上の定義を満たすさまざまな製品を送り出してきた、新しいイノベーション戦略の「達人」と言えます。同社CEOのSteve Jobsは、毎朝、鏡に向かって「今日、私はなにがほしいだろうか?」と自問するそうです。その際に浮かんだイマジネーションが、新しい価値を生み出す重要な
リソースであることを示す、格好のエピソードでしょう。では、結局、人間中心イノベーションはJobsのような「天才」からしか生まれないのでしょうか。属人性を排して、あらゆる人材/組織において再現可能なアプローチは存在しないのでしょうか。
このような問いに応えるべく、私は5年ほど前から、人類学を起源とする質的研究法・エスノグラフィのビジネスプロセスへの適用を研究・実務の両面から進め、ゆるやかな体系化を図ってきました。この体系ならびに実践を、私は「ビジネス・エスノグラフィ」と呼んでいます。その背景となる理論を簡潔にご紹介しましょう。
人間にはアプリオリ(先験的)に真実を求める性質があります。
家庭用ゲーム機を例に取ってみましょう。家庭用ゲーム機市場の競争優位性は、ゲーム機としての基本性能、すなわち、高速で高精細の描画をある制約(販売価格等)の下で達成することが成功の基準になるという強い信念が存在しました。このような事例はゲーム産業に限らずあらゆる産業分野で共通に見られる現象でしょう。やや抽象的な言葉に置き換えると、観察可能な事象は特定の「パラダイム」の下で成立し、これは人間の認識が何らかの固定観念に支配されていることを示しています。
固定観念を明示知化する法則や公理は不変であると信じがちですが、実際はアプリオリに存在することを保証されていません。それらは地中に隠された宝物のように「発見」されるのではなく、むしろステークホルダーの探求(読解行為)を通じて「発明」されるものです。
このような「相対的真実」を探求する伝統を培ってきた学問が人類学であり、その実践としてのエスノグラフィでした。Roy Wagnerはかつて、「人類学者が、自文化と対象社会の文化の実在との間の関係性を築き上げる唯一の方法は、経験した対照性によってその両者を同時に知ること」と述べました。これはもちろん、人類学者のみに効果的な技法ではなく、日ごろから「新たな真実」を探求する創造的実践者においても極めて効果的です。事実、ゲームクリエイターとして世界的な知名度を誇る任天堂の専務・宮本茂は、しばしばゲームをやらない人間を連れてきてコントローラーを握らせ、その肩越しに視線を送るといいます。
私はこのような認識論的実践として、ビジネス・エスノグラフィを位置づけています。必然的に、自らと文化を異にする「対象社会」をフィールド(調査対象)とします。そのため、プロジェクト実施テーマにメタ的な視点を与えることを意図的に行います。
たとえば、かつて花王生活者研究センターとの共同研究でテーマとして選定した「エイジングケア」では、「実年齢と乖離した行動や社会的関係性」という視点を仮定し、そこから演繹的に「肉体的な年齢と精神的な年齢に大きな乖離があるのはどんな人物だろうか」、「環境的に年齢を頻繁に意識せざるをえないのはどんな人物だろうか」といった問いを立てることにより、筆者らのエイジングの認識と際立って異なる経験・観点を持つことが期待できる人々を幅広くフィールドワークの対象として選択しました。
このような選択は、マーケティングリサーチの主要な方法であるフォーカスグループと際立った違いを明らかにします。フォーカスグループで対象となるのは、自らの文化と関係性が明らかな人間の集合です。「エイジングケア」を改めて例にとれば、それに関心を抱く30−40代の女性が積極的に選択されるでしょう。言わば、リサーチ以前に自らのビジネスのターゲットに措定された人々のことです。フォーカスグループでは一定の理論的枠組みの下で有用な知識の「発見」が目指されます。それに対して、ビジネス・エスノグラフィでは相対的真実の探求により、理論的枠組みそのものの「発明」が志向されるのです。
今一度、花王生活者研究センターとの共同研究に話を戻しましょう。
プロジェクトを実施した2007年当時、新聞や雑誌などマスメディアで語られた「エイジング」という概念は、もっぱら「アンチエイジング」を意味し、「若々しくいること」、とりわけ「顔など外見がより若い頃の美しい状態を保つこと」という意味で用いられることがほとんどでした。そこで、プロジェクトでは、マスメディアなどでの出現頻度は高いものの、あいまいでとりとめのないこの概念を捉えなおすことで新たな理論的枠組みを構成し、花王にとって有効なビジネス機会を見出すことを目的としました。
具体的には、前述した「実年齢と乖離した行動や社会的関係性」という視点に基づいて対象者像を導き、最終的に「20代で糖尿病を発症し、身体は50代と診断された30代男性会社員」、「肌や肉体を美しく保つことに強い関心を持ち、日ごろのスキンケアや筋力トレーニングを欠かさない30代男性会社員」、「学生劇団に所属し、実年齢の倍近い母親役を演じてきた20代女子学生」など、5人を選択しました。その上で、各々約2時間のインタビューを実施しました。このようにして得られたフィールドワークのデータは、プロジェクトチーム内での断続的なディスカッションと共同作業を通じて分析・綜合されました。その手順は、およそ以下のようなものでした。
- 対象者の主要な発言、行為の記述を、付箋紙に抜き書きし、断片化する。この付箋紙データを便宜上、「ファクト」と呼んだ。
- 各ファクトもしくはファクト間の関連により想起された対象者の知覚、習慣、価値観など、もしくはそれらと社会的現実との関連についての解釈を、別の色の付箋紙に書き込む。この付箋紙データを便宜上、「ファインディングス」と呼んだ。なお、ファクト間の関連については、対象者をまたがって検討を行うことが推奨された。
- ファインディングス間の関連を、類似性、相関性、因果性などを考慮して検討した。これにより想起されたより抽象度の高い概念を、上記2つのステップで使用されたものと色が異なる付箋紙に書き込む。この付箋紙データを便宜上、「アッパーファインディングス」と呼んだ。
- アッパーファインディングス間の関連を、因果性を中心に検討し、得られた構成を理論的枠組みとして措定した。
上述の手順は、あたかも首尾一貫した帰納的推論と受け取られるかもしれません。しかし、実際はステップごとに飛躍のある推論が行われ、連続しないステップ間の蓋然性に破綻が生じることもたびたびありました。そのため、私たちはステップを進めるごとにファクトに戻り、概念の蓋然性を確認しました。具体的には、「この概念は、対象者○○に当てはまるだろうか」という問い掛けを行っています。必然的に、ステップ4で導いた理論的枠組みは、対象者すべてに蓋然的なものだったと言えるでしょう。
では、その理論的枠組みはどのようなものでしょうか。ひとことで表せば、「エイジングとは、アイデンティティの変化に対するリアクションである」というものです。疾病、ライフステージの変化、環境変化などをきっかけに、個のアイデンティティは変化を迫られることがあります。そこで新たなアイデンティティの確立を求めて、重視する価値とその表現の機会・手段を模索するでしょう。言わばこの「自分探し」こそが、エイジングに新たな視座をもたらすメカニズムなのです。
ところで、ビジネス・エスノグラフィが探求するのはあくまで主体にとっての相対的真実であることを述べました。上述のエイジングの理論的枠組みにおいてもこの認識論は有効です。というのも、筆者らがプロジェクト開始当初に想定したエイジングの視座は、あくまで年齢は時間経過に伴い線形増加するという生物学的な論点に拠るもので、それゆえ、エイジングケアに関連したビジネス機会は、主に20代、30代、といった生活者の年代と結びついて生じると考えていました。一方、プロジェクトを通じて新たに得られた視座からは、エイジングは年代という単一の基準を超え、生活者の自分探しをきっかけに非線形的に現れるものであり、生活者のアイデンティティの変化を余儀なくするライフイベントに迫ることを通じて、エイジングケア・ビジネスの有望な機会を見通すことが可能になりました。
従来の視座に基づくマーケティング活動では、各年代マーケットの狭間で顧客のスムースな移行を促すことは困難を極めました。私たちは、そこに新たな視座に基づく戦略を導くことで、顧客との長期的な関係性の構築に寄与することを示したのです。
私とMotivation Makerは、このようなアプローチに基づくイノベーション創出のプロセスを、『イノベーション思考実践』で経験していただくことを狙っています。研修の題材は、「働く母親と子どものより良いコミュニケーションに向けて」というものですが、もちろん育児や教育に関心がある方だけを対象にしたプログラムではありません。このように社会的に共有されているトピックを題材にビジネス・エスノグラフィのプロセスを運用することで、幅広い業務や役割を担う実務家に集まっていただき、多様な視点から観察・ディスカッションを行うことで、参加されるすべての皆さまに実践的な学びを得ていただくことを目指しています。では、是非、来年1/25に多くの皆さまとお目にかかれることを楽しみにしています。
田村 大 (たむら ひろし)
株式会社博報堂イノベーション・ラボ上席研究員
東京大学 i.school(イノベーションスクール)ディレクター
慶應MCCプログラム『イノベーション思考実践』講師
1994年、東京大学文学部心理学科卒業。2005年同大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。社会科学、認知科学を背景に、人間中心のイノベーション・プロセスの研究開発に取り組む。また、2000年代前半より「ビジネス・エスノグラフィ」の体系化に着手し、研究教育および数々の企業コンサルティングを手がける。
共著に『東大式 世界を変えるイノベーションのつくりかた』、『センサネットワーク技術―ユビキタス情報環境の構築に向けて』など。
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