今月の1冊
2022年08月08日
木下 龍也『あなたのための短歌集』
ぬりたての絵を風という観客がよろこびながら乾かしてゆく
窓から入ってきた爽やかな風に、かすかな絵の具の香りを感じる。この短歌は、歌人・木下龍也さん著『あなたのための短歌集』に収録されたものだ。依頼者からのお題をもとに短歌をつくり、封書にして届けるという短歌の個人販売「あなたのための短歌1首」。そこから生まれた100題・100種が一冊の本になった。冒頭の短歌のお題は「風とおしの良い」。依頼者はお題のメールの中で、自身がイラストレーターであると明かしている。
この個人販売では4年間で700首もつくられたというのだから恐れ入る。それだけ、短歌を求めたひとがいるということだ。お題は自分の名前や好きな言葉、思い出から、漠然とした不安や人生の悩みまで、様々である。好きなものなら写真に残してもいいし、Tシャツのロゴにしてもいい。不安や悩みは、ひとに話すのもいいし、アイスクリームを食べて眠るのもいい。あるいはそのどれも、歌人に依頼して、三十一文字の世界に閉じ込めてもらうこともできるのだ。木下さんの短歌は、依頼者の想いにきゅっと寄り添いながらも、独特な目線で足元を照らしてくれる。それが心地よい。
頑張らなくてもいいんだよと思える短歌をお願いします。
もがくほどしずむかなしい海だから力を抜いて浮かんでいてね
お守りのように持ち歩きたい短歌だ。もがいている自分に気づいた時、懐からさっと出せば、気持ちが落ち着くだろう。
最近ずっともやもやとした悩みを抱えています。励みになるような短歌をいただきたいです。
いつからか頭のなかで飼っている悩みがついにお手を覚えた
得体の知れない悩みという獣も、木下さんにかかれば、お手すら覚える。ならばもう暫くは飼ってみても良いか、何ならおかわりも教えようか、と思わせてくれる。
人生のどん底にいる人へ、一筋の光のような希望を与える短歌をつくってほしいです。将来、夢を叶えられなくて絶望したり、大切な何かを失ったりしたとき、生きていくために口ずさめる歌がほしいです。
絶望もしばらく抱いてやればふと弱みを見せるそのときに刺せ
抱いてやったかと思えば、すかさず刺す。この緩急がたまらなく好きだ。油断しきった絶望の、「ぎゃあ」という断末魔すら聴こえてくる。依頼者はきっとこの歌を忘れられないし、その時がきたら絶望を打ち果たせるに違いない。
お題は「幸せな犬」です。犬たちと暮してきた実家を出てから、犬を飼って、世界一幸せにすることが、私の人生の目標でした。ちょうどこれを書いているいまは、犬を迎える3日前です。
人間へ 食べ物よりもきみが好きな日もたまにはあるよ。 犬より
人生の幸せを凝縮したような短歌もある。犬好きにはたまらないだろう。私も今すぐ実家の犬の元に駆け寄って、おでこのふわふわとした毛の、陽だまりのにおいをかぎたくなる。
あるいは「なぜそのお題を?」と、ふふっと笑えるユニークなものもある。
お題は「オムレツ」でお願いします。
崩壊と崩壊の間にオムレツというひとときの成形がある
お題は「鶏肉」でお願いします。
ささみ・むね・もも・すね・てばにわけられて天国でまたにわとりになる
依頼者にとっては、とても思い入れのある食べ物なのかもしれない。依頼文はたった一言で、背景が見えないだけに難解だ。木下さんは、お題一つに一つにどう向き合い、短歌をつくられたのか。あとがきではこのようにつづられている。
「あなたのための短歌1首」のお題はひとつとして同じものがない。それだけ人生が多様であるということだろう。大切な人との死別、結婚、離婚、出産など、僕自身が経験していないことや、経験できないことについてのお題も多々ある。手がかりとなる情報は、お題としてお送りいただくメールのテキストだけだ。依頼者の一面、しかも他人である僕に見せることのできる、わずかな部分でしかない。そんなとき僕は、そのわずかな部分に自分を重ね合わせて、自分ならどんな言葉がほしいだろうか、ということを考える。(中略)それを探しながら数時間、ときには数日をかけて、何度もお題を読み返して一首をつくる。
人はそれぞれの絶望、それぞれの犬、それぞれのオムレツを持っている。短歌を送った後、依頼者から反応があるのは稀だという。答え合わせすらほとんどできない。それでも木下さんは、相手の見せるわずかな部分に、重ね合わせていく。精緻に、慎重に。
ところでこの本は、右のページに「お題」が、左のページに「短歌」が書かれている。どちらか片方だけでは成立しない、お題と短歌でひとつの作品なのだ。依頼者の個人的なお題は、共有を通して客体化され、私たちのお題になっていく。そして木下さんの短歌もまた、私たちへの短歌になる。私も特別心に残った短歌があった。三十一文字を読み終えて、目のふちに涙が溜まった。あまりに心が動いたので、ここに書くことさえできなかった。そのくらい、私のお題で、私のための短歌だった。この本の中には誰にでも、そんな一首があるはずだ。
(内田紫月)
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