2011年04月12日
清水 勝彦「価格破壊と自社の「原点」- 「初心忘るべからず」世阿弥」
清水 勝彦
慶應義塾大学大学院経営管理研究科・ビジネススクール教授
戦略再考
大きく分けて、戦略には、コストを下げ、その下げ分を低価格に反映させる「コスト戦略」と顧客により価値のある商品・サービスを提供する「価値戦略」(一般には「差別化戦略」といわれますが、「コスト戦略」も価格で差別化していることには変わりがありませんので、ここではこう呼びます)があります。つまり、
という等式で考えることができます。分母を下げることで顧客にとっての商品・サービスの魅力度を上げようとするのが「コスト戦略」であり、分子を上げることで魅力度を上げようとするのが「価値戦略」です。ここで大切なのは、こうした戦略には2段階があるということです。
第1段階は、どのようなニーズを持った顧客層を狙うのかという「ターゲット顧客層」の設定です。例えば、自動車でも、スピードや安全性だけでなく、様々な最新技術を盛り込んだ「セクシー」な自動車を欲しがる人もいれば、A地点からB地点まで行く道具と考えている人もいるわけです。当然前者には価値で勝負しなくてはなりませんし、後者には価格で勝負です。現実には、その中間層が一番多いでしょう。
第2段階は、そうした「ターゲット顧客層」を獲得するために、同じような戦略を取るライバルとの競争に勝つための具体的な施策の設定です。富裕層をめぐっては例えはメルセデス、BMW、あるいはレクサスが、高い価値を提供しながら顧客にとって競争相手よりも魅力度の高い商品を提供するために、しのぎを削るのです。これは、ミドルクラス層をターゲットとした競争でも、節約第一の層をターゲットとした競争でも同じことが言えます。1 (*1)
なぜこんな基本的なことを持ち出したかといえば、今周りを見渡したとき、結局何だかんだいって、「価格」で差別化を図ろうとしている企業がほとんどではないかと思うからです。「コスト戦略」をとる企業はもちろん、ハイエンドの「価値戦略」をとる企業でさえ、現実には競争相手にはなかなか「価値」で差別化を図ることができず、何とか価格を下げて「お買い得感」で勝負をしようとしているように見えるのです。そして、多くの企業、社員がそのためにへとへとになっています。
こうした価格競争を「レッドオーシャン」と呼び、それではジリ貧ですよ、新しい「価値」の提供を探しなさいとベストセラーになったのが『ブルーオーシャン戦略』です。価格競争の閉塞感を打ち破る打ち出の小槌として大きな期待を集めました。それがたった数年後、まだまだ研修などで教えられているとは聞きますが、現実に使われているとはあまり耳にしません。むしろ、価格競争は厳しくなる一方です。
「財布シェア」と「価値」
あちこちの市場が、黒にも近い「レッドオーシャン」化したのは、マクロ的な不況に端を発するいくつもの要因があるでしょう。まず、少し前のように「良いものを安く作れば売れる」という前提が変わってきたという点があげられます。たとえば、ここ10年間の国内新車の登録台数を見ると、右肩下がりです。その間、燃費はもちろん、性能も上がり、そして価格すら下がったにもかかわらずです。
この状況が意味するのは、顧客のライフスタイルが変わる中で、これまで当然のように購入していた商品やサービスを購入しなくなっているということです。つまり、収入から、将来のための貯金などを引いた残りの、「限られた可処分所得の分配の仕方」が変わってきたのです。言い換えれば、ターゲット顧客層をめぐって競争をしているのは、単に同じ業界のメーカー例えば、トヨタにすればホンダや日産だけではなく、もしかしたら携帯電話かもしれないし、旅行かもしれないということなのです。顧客は自動車を購入して得られる費用対効果と携帯電話を購入して得られる費用対効果を比べ、より高いほうに配分をシフトしているのです。つまり、単なる「マーケットシェア」ではなく、顧客の「財布シェア」を上げなくては売上も、利益も上がらなくなってきているということです。
それと関連した2つ目は、顧客は思ったより「うそつき」だということです。これは、何も「助け合っていきましょう」「一心同体だ」といっていた長い取引先が急に白々しくなったり、連絡しても居留守を使われたりするということだけではありません。口では「いつもの店でちょいと一杯できなくなるのはさびしい」「チェーン店は味気ない」などといっておきながら、宴会は飲み放題の安い居酒屋チェーンへ、そうでないときは店の前を素通りして家で、しかも発泡酒を飲むということがあたりまえになってきたということです。お店の側からすればうそをつかれた、裏切られた気持ちがするわけですが、お父さんとしては、限られたお小遣いをどう使ったら一番幸せになれるのかを考えて必死なのです。
そして、最後に、実はメーカーやお店が提供してきた、提供してきたはずの「価値」というのは、あまりはっきりしたものではなかったということです。若者にとって、車があこがれであるのは当然だと思っていた。酒飲みにとって、このお店に来るのは当然だと思っていた。しかし、そうした顧客にとって、企業や店が与えている「価値」というのは、実はあまりはっきりしていなかったのではないでしょうか。いや、初めははっきりしていたのかもしれません。それが、顧客のライフスタイルも変わり、世の中も変わって様々な代替品が現れる中で、「費用対効果」の基準が変わり、これまでは十分価値のあるものだったものが、他の商品やサービスに比べもはやそうではなくなっているということはないでしょうか?
価格破壊に走る経営のリスク
「価格破壊」競争が更に進むと、ジーンズに見られる「信じられない価格競争」が起きます。少し前まで、数千円していたジーンズが990円だ、880円だと大騒ぎになりました。結構売れたことでしょう。しかし、顧客は本当に満足しているのでしょうか?
ジーンズに数千円の「価値」(分子)、があり、それを990円(分母)で購入できるということは、大変魅力的でした。しかし、そうした顧客は、今もジーンズに数千円の「価値」があると思ってはいないでしょう。分母を大幅に下げて魅力度を大幅に上げたはずが、同時に分子も下げ、結果としてジーンズ全体の魅力を下げてしまったということはないでしょうか?「正統派」のジーンズが5千円だとすると、これまでは「当然」だったのが、今度は「高すぎる」と認識されるようになり、それだったら、別のものを買おうということになってしまう可能性が増えてはいないでしょうか? 実は、何年も前に同じようなことをマクドナルドが行い、業績を回復するために随分時間がかかったことをご記憶の方も多いでしょう。
私がもう1つ心配するのは、コスト削減とは、本来「不用なコストを削減」する意味のですが、「必要なコスト」までを削減することが往々に起きることです。「商品を安く作る(Making a product cheaply)」と「安い商品を作る(making a cheap product)」は根本的に違うのです。当然、「コスト戦略」と呼ばれるものは前者でなくてはなりません。しかし、何とかコストを下げようということで、例えば航空会社がメンテナンスを1回抜かすということは、実際に起きています。それだけで大変な節約になります。しかし、それは違います。
ここ何年か、販売数は減少しているにもかかわらず、リコールが大幅に増加している自動車業界を見ると、今回のトヨタのリコール問題は、ある意味、「起きるべくして起きた」という感じがします。電子化が進み、より機能が複雑になっていることはあるにしても、あの「石橋を叩いてもわたらない」はずのトヨタがこうした問題に直面しているのです。他の業界の経営者にとっても、これは人ごとではないはずです(この懸念が「下衆のかんぐり」であればよいと思います)。
自社の「原点(アイデンティティ)」の喪失
「価格破壊」と言われるほどの厳しい価格競争、そしてコスト削減競争とそれに伴う様々な問題は、企業として顧客に提供する「価値」(分子)が分からなくなっていること、従って、価格(分母)を下げることでしか自社の商品・サービスの魅力度を上げるしかないという経営の行き詰まりを示しているように思えます。景気の良いときに作った商品コンセプトやビジネスモデルをそのままにして、一生懸命コストを下げようと四苦八苦しています。景気の良いときに買った豪華マンションのローンを返すために食費を切り詰めているのと似ています。おなかが空けば、悪いことと分かっていてもついつい手が伸びてしまうこともあるでしょう。
それでは、ちゃんと市場調査をして、顧客ニーズ(「価値」)をきちんと把握すればよいのかと思われるかもしれませんが、話は簡単ではありません。「顧客はうそつき」だからです。「録音できないテープレコーダーなんて売れるはずがない」と言われたウォークマンの例で有名なように、顧客は実際に商品を手にとって見るまでは本当に好きかどうかはわからないので、「何が欲しいですか」と聞かれれば心にもないことを言うものなのです。
思うに、多くの企業、経営者が、環境変化の中で、顧客や競合に振り回され(お互いを振り回し)、自分を失ってしまっているのではないでしょうか。顧客ニーズが読めない、移り気だ、うそつきだと欲求不満になり、競争相手がしたことは、良いか悪いかもわからずへとへとになって追随するのは、自分のアイデンティティがないからです。松井道夫社長の言葉を借りれば、「お客様、私は何をしたらいいですか」ではなく、「私はこうしたい。それを認めてくださるお客様はお集まりください」と宣言する時期にあると思います。定職を持たない若者の「自分探し」がブームになり、一部の識者はそれを「甘い」と非難しましたが、経営者もまた「大変だ」と言いながら現状に安住していたのではないかと、自らに問う時期にはないでしょうか?「顧客第一」というスローガンに踊らされ、「レッドオーシャン」を顧客のせいにしていなかったでしょうか?
経営にとって「自分探し」とは、自社の強みそして、社員が情熱を持って取り組める仕事でありテーマを確認することに他なりません。はじめは「食うため」だったのかもしれませんが、会社が生き残り、そこそこ大きくなっているとすれば、どこかで「こうしたい」というものが見つかり、追求してきたはすです。そうした原点、アイデンティティが、成功する過程で事業を広げたり、社員を増やして新規事業を始めたりするうちに、少しずつ薄れてしまったのではないでしょうか。そして、バブルの崩壊、失われた10年(20年?)、更には金融危機に端を発する世界不況と、荒波のような環境変化が繰り返し押し寄せてくる中で、すっかり「自分は何をしたいのか」を見失ってしまっているように思います。豪華マンションに住むことは人生の目的ではないはずです。安い賃貸アパートに引っ越してみると、これまでには見えなかった幸せが見えてくるかもしれません。
いや、そんなことは分かっている。しかし、自分のしたいことだけしようと思ったところで、今のご時勢では食っていけない。私には、社員の生活を守る義務がある。そうおっしゃる方もいるでしょう。全くそのとおりだと思います。ただし、勝算がないのに、今の戦いに固執することは「守る」とは言いません。戦国時代に負けを承知で篭城することはあったでしょうが、ジリ貧が分かっていて単に生き延びるのを先延ばしにしているとすれば、それは「守っている」のではなく「しがみついている」のです。
消耗戦を捨て、自社の原点に戻るとは、これまで広げてきた事業から撤退し、売上も減ることを意味します。大変なエネルギーが必要です。自分達のしたいこと、強いことに集中したからといって、本当に売り上げが伸びるのか、将来利益が上がるのかも、何の保証もありません。もしかしたら、受付で断られ続けながら営業活動をしなくてはならないかもしれません。今以上に仕事はきつくなり、商品開発のために寝る間も惜しんで働かなくてはならないかもしれません。
しかし、よく考えてみてください。そんなこと、昔もしたのではないですか? そして、それはもちろん仕事だからしなくてはならなかった部分も多いでしょうが、「面白いから」一生懸命やれたということもあったのではないでしょうか? もし「いや、私は若いから、そんな経験はない」とおっしゃる方は、自分の子供時代、学生時代を考えてみてください。「徹マン」と言う言葉は死語になっているかもしれませんが、時の経つのも忘れて友達(あるいはテレビゲーム)と遊んだり、面白い本を読むうちにいつのまにか朝になってしまったという経験はないでしょうか。
問題は、仕事の負荷とか、大変さだけではないのです。「面白い」と感じるかどうかなのです。コスト削減だって、それが目的になってしまえば辛いだけでしょう。コスト削減を通じて、将来はこんなことをしたいんだと言う具体的な「夢」を描ける社員は、その取り組みも、また苦痛を感じる度合いも、随分違うのではないかと思います。
ロジック経営の陥穽
私は10年間を戦略コンサルタントとして過ごし、その後15年は4年間の博士課程の時期を含め、大学で経営戦略を研究し、また教えてきました。そうした偏った経験をしながら、一方で大学教授という中立な立場で好き勝手な議論を経営者の方々としてみると、「今の日本に広まるアメリカ型経営手法」が少しいびつであると感じざるを得ません。
私も含め、マッキンゼー、BOGなどの戦略コンサルタントたちは、戦略こそが企業の業績を決めるのだと言い切った時代が長くありました。こうした「戦略重視」のアメリカ式経営の考え方が広まり、またMBAという学位が日本でも市民権を得るにつれて、分析、理論が大変重視されるようになりました。分析力、論理力が経営については何より大切だという考え方です。つまり次のような公式です。
業績 = 戦略
業績 = 戦略 = 分析、ロジック
これは明らかに言い過ぎのところはあり、最近は『現場力』と言う書籍がベストセラーになったりと「実行」面重視への揺り戻しが見られます。つまり、
業績 = 戦略 X 実行
ということです。しかし、思うにもう1つの公式のほうは修正されないまま、多くの企業で生き延びているのではないでしょうか。
業績 = 戦略 X 実行 = 分析、ロジック
考えてみれば、これも当然おかしいわけで、例えば「好き」「嫌い」などは理屈の問題ではありません。分析をしたから、この仕事がしたいということにはならないのです。ですから、正しい公式は次のようになるはずです。
業績 = 戦略 X 実行 = 分析、ロジック X 人間の気持ち(例、やる気)
こう書くとあたりまえなのですが、現実にはこの「気持ち」の部分が無視されているような気がしてなりません。何を言っているんだ、社員の「やる気」と言うのは企業が最も重視をしてきており、例えば多くの企業が成果主義などに取り組んで苦労しているのもそのためだ…かも知れません。
しかし、よく考えてみてください。成果主義の基本的な考え方は、成果を上げたら、その成果に応じた報酬を与えることで「やる気」を出させることです。逆に言えば、人間と言うものは、にんじんをぶら下げればよく働くものだという、きわめて単純な論理から成り立っています。もちろん「本当の成果主義」はそんなに単純ではないでしょうが、少なくとも私が見聞きする限り、多くの企業の「成果主義」の導入はそうした単純な論理で「やる気」が上がり、生産性がアップし、会社の業績が良くなることを目的としていたように思います。人間も、ハツカネズミや馬と同じだと。
しかし、人間はもう少し複雑です。その理由はいろいろありますが、一番の理由は「未来への想像力をもつ」ことではないでしょうか。今はこうだけど、将来はこうなりたいと言う「夢」を持つ力と言ってもよいと思います。そして、「夢」を追いかけているという実感がある時は、そうでないときに比べて、同じようにつらい状況にいても、気持ちの持ち方も全く違います。同じようにつらい仕事をしても、それほど疲れたとは感じません。
繰り返します。成果主義がおかしいのではありません。成果主義で人間が「操れる」と考えるのがおかしいのです。分析やロジックが隆盛を極める中で、そうした考えになじまない人間的な部分がいつのまにか軽く扱われたり、悪者扱いされてはいないでしょうか。分析やロジックは、極端に言えば、やればよいだけの話で、だからこそMBAの教育はたった2年でよいわけですし、MBA取りたての若造でもコンサルタントが務まるわけです。
もちろん、分析やロジックは大変重要ですし、世の中では「えっ、こんな基本的な分析もしていないの!」という大企業が結構ありますので、それだけでも価値がある場合はあります。ただ、分析やロジックが客観性、一般性を持ち、だれもが理解しやすい結果、どろどろとし、なかなか言葉で説明できず、分かり合えるまでに時間がかかる「気持ち」の部分が後回し、もっと言えば無視されることがあってはならないことを強調したいのです。「やる気」とは、あればもっといい程度の「足し算」の要素ではありません。「やる気」がなければ、できるものもできないし、逆にとてもこんなことはできそうもないということを可能にするのが「やる気」なのです。
リーダーの役割
リーダーの役割とは社員を「夢」に駆り立てることです。そのためには「夢」を社員に語り、社員と共有しなくてはなりません。当然ですが、「夢」とは、自社がこのようになりたいと言うことであって、顧客がこんなことを言っているとか、競合がこんなことをしているということではありません。それは理屈ですらなく、「自分」が何をしたいか、何をしたくないか、人間としての気持ちをあからさまに出すことです。それを聞いた社員が、10年後の自分をイメージでき、またその「夢」が嫌いな社員が会社を辞めるくらいの強さが欲しいと思います。「新商品の開発を通じて社会に貢献することだ」といった、毒にもクスリにもならないような「ビジョン」を打ち出して、社内に活気がないと困っていらっしゃる経営者の方は、早く後進に道を譲られることをお勧めします。
共有と同じような意味で、「腹におちる」という言い方があります。こうしたリーダーの「夢」「ビジョン」を社員に分かりやすく、具体的に伝えることだ、などと小利口に考えてはなりません。「腹におちる」とは、そうした「夢」を理解したうえで、そのためにはいろいろ辛いこともあるけれど、やるしかないなと覚悟をすることです。やりたくないこともあるけれど、一丁やってみようかと心を決めることです。そして、「夢」を社員の「腹におとす」ためには、理屈だけでは足りません。そもそもリーダーが情熱を持って語らなければ、誰が賛同するでしょうか。リーダーが弱気になったり、くじけていて、誰が覚悟をもてるでしょうか。リーダーは、自分の気持ちをさらけ出して社員と「夢」のコミュニケーションをとことん重ねるべきですし、そしてコミュニケーションの最も重要な部分は日ごろの行動です。体を張ってこそ、気持ちは伝わるのです。リーダーの情熱こそが社員を動かすのであり、そのためには(言い訳ではなく)情熱を持って語り続けることの出来る事業、仕事を自ら選び取るしかありません。
まとめにかえて:初心忘るべからず
「初心忘るべからず」とは世阿弥の言葉です。一般に解釈されている「最初の決心を忘れるな」「原点を忘れるな」という意味でも、この文章を結ぶにふさわしいのですが、実はもっと深い意味があるという評論を読んだことがあります。原典が見つからず、うろ覚えで書くのですが、要は、能で一人前に舞台に立つ少年期のころ、まだ体もしっかり出来上がっていないし声変わりもしてその姿は「醜い」のだ、そのときの気持ちを忘れるなという「戒め」だというのです。
中小企業であれ、大企業であれ、そのスタートが何の問題もなくすくすくと成長したというケースはまれでしょう。随分苦労をしたり、人には言えないようなこともあったはずです。それが、そこそこ成長してしまうと、そのころの必死さ、ひたむきさを忘れてしまうということはないでしょうか。同じ必死でも、今ある仕事、今の事業のコスト削減ばかりに必死のように見えます。そして何よりも、自分がしたいことをしているのではなく、本当はしたくないことを「食わなければいけないから」という言い訳で、しがみついている。会社は大きくなったかもしれない。少しくらいの贅沢もできるかもしれない。しかし「楽しい」でしょうか? 自分ががむしゃらに働いていたころよりも、「仕事をした満足感」を得られているでしょうか?
アップルのスティーブ・ジョブズは2005年のスタンフォード大学のMBA卒業式のスピーチで「朝、鏡に向かって、今日やろうとしている仕事が、もし今日が人生最後の日でもやろうと思うかと自分に問いかけ、違うという答えが何日も続いたら何かを変えなくてはならない」と言います。そして、そのスピーチを「Stay hungry, stay foolish」という言葉で締めくくります。
「Stay hungry, stay foolish」は若者の特権かもしれません。自分の好きなことにひたむきに、そしてがむしゃらに取り組めるのは、青臭いからでしょう。思えば、今回申し上げていることも、随分青臭いことばかりです。「自分のしたいことをしているか」「気持ちをあからさまに表せ」「情熱を持って語れ」等々。しかし、もし青春とは心の持ちようであるとすれば、大人だって面白がったり、がむしゃらに働いたり、喜んだりして悪いわけはありません。日本が豊かになり、成熟する中で、私たちはもう一度自分たちの「原点」を振り返り、新しい環境の中で「自分がやりたいこととは何だろうか」を問いかける必要があると思います。「Stay hungry, stay foolish」はアップルやアメリカの若者だけのものにしておいてはいけません。「初心忘るべからず」の精神は、私たち日本の文化にこそあるのです。
- 清水勝彦(しみず・かつひこ)
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- 慶應義塾大学大学院経営管理研究科・ビジネススクール教授
1986年東京大学法学部卒業。1994年ダートマス大学エイモス・タックスクール経営学修士(MBA)、コーポレイトディレクション(プリンシプルコンサルタント)を経て2000年テキサスA&M大学経営学博士(Ph.D.)。同年テキサス大学サンアントニオ校助教授、2006年准教授(テニュア取得)、2010年より現職。
専門分野は経営戦略立案・実行とそれに伴う意思決定、戦略評価と組織学習。米国での学会、論文発表多数。日本企業の研究や幹部研修などの実績も多い。- 担当プログラム
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