2011年09月12日
「”全力疾走”から”成り行き任せ”へ 移行期に考えるキャリア」土肥太郎
プロフィール
1963年、大阪府生。慶應義塾大学法学部政治学科卒。大学卒業後、独自動車輸入販売の日本法人立ち上げに参画。経理・財務を振り出しに、営業企画、人事部門に配属。入社3年目に海外勤務を経験する。
2000年、外資通信企業に転職。一貫して人事畑を歩む。2009年から20年ぶりに海外(ロンドン)勤務となり、グローバル人事を担当。震災直後の3月末、再び日本に戻り、世界で通用するリーダーの発掘とリーダーシップ開発に腐心の毎日。
目下の関心事は、日本の未来。そして、いかに後悔のない人生を楽しむか。
10年のキャリアの歩み-主要なイベント
10年前というと、現在の会社に転職して2年目、上司が初めて外国人となった時期である。会社も拡大途上にあり、人事スタッフも増強し、インフラもある程度整って、会社として格好がついてきた頃であった。
その後の10年間で以下のイベントを経験した。
- 人事の管理職から、人事部門のトップを経て、マネジメントの一員となる
- 直属の上司が、10年間で都合8回も交代する
- 組織の急拡大とスリムダウン化の両方を経験する
- インドに長期出張し、インド在勤の社員を全員関連会社に転籍させる
- チームに外国人を採用し、さまざまなカルチャーギャップを経験する
- 会社の事業内容が大きく変わる
- 管理中心の人事部門から、ビジネスパートナーとしての人事部門への変革を迫られる
- 海外勤務となって外国人と呼ばれるマイノリティーの立場となる(唯一の日本人)
ビジネス環境の変化
この10年間における会社ビジネスを取り巻く環境は激変し、会社の事業領域も、環境変化に対応し、ほとんど別会社と思えるほどの変身を遂げた。とくに、ここ数年間で、光ファイバーによる高速通信回線インフラを提供する会社から、クラウドやIaaSに代表されるIT・通信の統合プラットフォーム提供を事業の柱とする会社へと変貌しつつある。
この10年の会社内外におけるビジネス環境の変化は以下の通りである。
- ITバブルの崩壊
- 事業再編に伴い、負け組が退場するなど、競争勢力図が大きく変化
- 人材の獲得競争の激化
- 価格競争の激化、サービスの多様化に伴い、事業の柱の変更を迫られる
- 自社のみでのサービス開発の限界(スケール)、ビジネスパートナーとの戦略的な互恵関係の構築の加速
- 膨らむ人件費への対応
- 業務の英語化と海外への業務アウトソーシング
- アジアでの拠点展開
人事の役割の変革への対応
ビジネスを取り巻く環境の変化は、わたしの担当する仕事にも大きな変化をもたらすことになった。
すでに90年代から、人事不要論が取り沙汰され、人事部門の変革の必要性が指摘されていたが、わたしにとっての、この10年間は、自分自身を含め、人事部門がどうやってビジネスを理解していけばいいのかを模索する日々であった。自分のやってきたことが会社にとって役立っているのか、自家撞着になっていないか、と悩んでいた。いままでの経験をベースに仕事を考えていたのでは対応できない問題がたくさん発生した。教科書的な対応では評価されないし、会社にとって良い結果をもたらさないことを痛感した。
ひと皮むける経験
2009年、本社への出向が決まった。その際、声を掛けてくれた上司からの一言が心に響いた。「日本を出て、人事でいままでやってきたことを全部忘れろ」と言われたのである。
言葉の綾とは思ったものの、習い性となったことをアンラーニングするのは、新しいことをラーニングするよりも難しい。いまにして思えば「いままで経験してきた(人事の)常識で考えようとせずに、投資家あるいは経営者の立場からみたときに、なにがベストかという視点で見てみろ」という意味であったと思う。
海外にいる(日本を出る)ということだけでも、存外モノの見方というものは変わるものである。自分で考えなければいけない時に、考えている自分を冷静に見つめ、自分(の役割)になにが期待されているのかを考える習慣が付いた。いままでは、ただ遮二無二仕事をこなしていただけだったような気がしてくるから不思議だ。
これまでわたしは上司の言うことは、無理をしてでも実現に向けてサポートするという作法で仕事をしてきた。じつに良きフォロワーだったといえる。
ところが、ロンドンの同僚の仕事をみていると、自分の役割責任の守備範囲内においては、社長が言っても譲らない場面にたくさん遭遇した。「俺は社長だぞ」と言ったところで、「俺は○○部長で、この仕事の専門家で責任者だ」とすごみ返されてしまうのである。言うことを聞かせるためには、部下であっても説得しなければいけない。
また、ポジションでは勝負ができない場面もかなりあった。ビジネスを理解し、コミュニケーションができないと物事が先に進まない。本当の実力が必要とされるのだ。この点でも、日本でやってきた仕事の仕方は甘かったと反省させられた。
20年ぶりの海外勤務は、いろいろな気づきを得る最良の機会であった。上司の一言と海外勤務の経験のおかげで、すくなくともツルンと皮がむけ、脱皮できたように思う。
キャリアの持論と付言
最後にわたしの「キャリアに関する持論」をお話したい。
わたしは、「外的キャリアをマネージすることは可能である」と考えている。しかしそれを実現するには、コミュニケーション能力がキーになると感じている。
自分の意見を、積極的かつ効果的にアピールすることは重要だと思う。とくに外国人と仕事をしているとその思いを強くする。黙っていても、誰かがどこかで見ていて評価していてくれるという態度は、日本人にありがちな謙譲の美徳ではある。しかし、沈黙は、これからのグローバル企業(ビジネス)では成功要件とはなりえない。頭脳優秀だがEメールでばかりコミュニケーションしようとする社員は、たいてい日本人だ。これでは、世界レベルでの競争は勝ち抜けない。自己の主張をはっきりとコミュニケートできる人が、外的キャリアについての自己実現の可能性が高いということができる。
内的キャリアのマネージについては、私自身がその実践の只中でイメージを確立できておらず、回答を得ていないというのが現実である。今後の検討課題としたい。
ただ、私が内的キャリアについて考えてきたことを俯瞰してみると、わたしは、20代のころから、定年までのサラリーマン生活(約40年)を大きく3つの期間に分けて考えていた。最初の10数年を、丁稚奉公のための「助走・訓練期間」。そして、続く10数年を、「全力疾走期間」と位置づけていた。この全力疾走期間には、助走・訓練期間中に身に付けたスキル・経験を活かし、「いい仕事をして、いっぱい稼いで、偉くなる」と真面目に考えていた。最後の10数年については、「成り行き任せの期間」としていた。前三分の二の期間における自分の頑張り次第で結果が如何様にも変わってくるという意味でとらえていた。
しかし、時代は変わり、わたしの20年超の人事の経験・過去の蓄積は、今やわたしの現業務にそれ程の影響力はない。人事部のトップに人事経験のない人物を抜擢するケースが増えているとも聞く。これはちょっと寂しい気がする。そして、いまわたしは、ちょうど「全力疾走期間」から「成り行き任せの期間」への移行期にいる。すこし、立ち止まってドリフトしてみてもいいかなと思うし、自分のキャリアを再検討・再構築することも考えてみたい。
このように自分のキャリアをある程度客観視できるようになったのも、慶應MCC主催の「キャリア・アーキテクチャ論(ファシリテーター:金井壽宏先生)」との出会いと、そこで知り合った仲間からの影響によるものが極めて大きい。10年近く交流が続いているのも驚異的だ。改めて感謝の気持ちを伝えたい。
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