学びの体験記
2011年12月13日
今までの「学び」を振り返る
山本 一之進
(1)はじめに
僕は、いったいいつから学び始めたのだろうか。
「学び」についてのエッセイ執筆のお話をいただいた際にふと考えたのがこの疑問である。
「学び」とはどういうことかをきちんと設定しないと読み手の皆さんは困ると思うが、それは後に触れるとして、この疑問について自分の人生を遡って考えてみたい。
(2)「学び」のスタート
自分がこの世に生を受けて一番最初の記憶は何か。ここから考えると、やっと立ち始めた頃に黄色のパンツをはいていた記憶がある。大人になって、思い込んで作り上げた記憶かもしれないと思い、母親に確認したところ、「よく黄色のフリルのついたパンツをはかせた」とのことだったので、自分としては嫌な記憶だったのかもしれない。
赤ん坊から子どもと呼ばれる年齢になった頃からは、自転車に乗ったり、大人の真似をしてビールを飲むふりをしたり、車から眺める風景を記憶して「ここ前に通ったよね?」と聞いたり、親や幼稚園の先生など周りの人に疑問について質問したりすることで自然に知識を得ていったのだと思う。この頃は、「学び」というよりも大人の真似や生活するなかで自然と体得していくといったことのほうが的確な表現なのかもしれないが、好奇心旺盛で何でも自分でやってみないと気が済まない子どもだったらしいので、能動的な部分がある点で、この頃が僕の「学び」のスタートなのかと思う。
「三つ子の魂、百まで」ということわざがあるが、好奇心旺盛な点や何でもとりあえず聞いてみようといった姿勢はこの頃から続いている(!?)ので、2011年9月に慶應MCCの『ロジカル・ライティング』の講座を一緒に受講した方々には、少なからずご迷惑をおかけしたかもしれないがご容赦願いたい。
さて、ここでやっと僕の「学び」がスタートしたわけであるが、こうやって振りかえってみると「学び」のスタートに必要なのは知的好奇心や興味なのだと思う。つまり、僕にとって「学び」とは、「知りたい」とか「どうなっているんだろう」などと考えて自発的に知識を習得する活動ということになる。
(3)学生生活
僕にとっての「学び」を定義づけることができたが、もう少し自分の人生を進めたい。
小学生になると教室内での授業がスタートすることから、「学び」は新たなステージを迎える。先生から勉強を教えられるという受動的な要素が知識習得手段の大部分を占めることになるが、それでもこの頃の「学び」は、公文や進学塾での勉強、本や図鑑さらには歴史マンガなどを読んで行っていた。知りたいことを時間と労力を惜しまずに知ろうとする、今までの人生で最も楽しく「学び」を行っていた時期であると思う。
中学校からは、興味をもって知的好奇心を満たすべく勉強をするといった自分のコントロールの及ぶ「学び」ができなくなる。その理由はもちろん中間・期末の定期テストである。テストのための勉強は、(少なくとも僕には)点をとるためにテスト範囲を記憶することが中心の勉強であったため、知的好奇心とは別物の少しも面白くない作業であった。当然、テストの翌日には記憶から大部分消去されるという刹那的な作業というのが、中学校から高校にかけての勉強であり、「学び」とは到底いえない点に、今思うともったいない時期であったと思う。
もっとも、高校の英語の勉強だけは楽しく、「学び」といえるものだったと思う。留学して、英語でコミュニケーションがとれたときの嬉しさから英語に対して興味があったのであろう。
学生生活を振り返ることが楽しくなってきたが、当時4名いた海外の文通相手は、元気だろうか・・・
大学生になると、テストのための刹那的な作業は無くなったが、「学び」以外の活動機会や特定目的(例えば、社会人となるための準備)のために必要な知識習得の機会の増加といった周囲の環境に影響されて知識の習得作業を行うという側面が強かったように思う。良く学ばず、良く遊んでしまった点に反省しているところである。
(4)社会人そしてこれから
就職活動を経て「自己実現」なんて言葉を使い始めると、「自己実現」のために何か学んでみようと思うものである。こうなると僕の「学び」の定義は変容する。すなわち、「学び」の動機に自分の担当業務との関連性を考慮するなどといった、一定の目的部分が加わることとなる。
社会人になると、時間と労力を無駄なく効率的にかけるといった「学び」に対するコストを考慮する点で楽しかった「学び」とは異なっている部分はあるものの、資格取得等のスキルアップや転職のために慶應MCCや大学院へ通うなどして「学び」を行ってきた。これらの「学び」で得た知識や経験によって、自分は成長していると実感していることから充実した「学び」が行えていると思っている。
仕事だけでなく自分が社会において一定の価値を実現するには、自分の成長が必要であり、その成長のためには「学び」が必要であるとすると、人生においては常に「学び」が必要ということになる。
あと何十年生きるかわからないが、晩年に自分の人生の「学び」について振り返ることができるよう今後も「学び」続けたい。
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