夕学レポート
2006年06月14日
「哲学とユーモアは表裏一体である」 土屋賢二さん
「哲学で語られる問題の多くは間違っている(ナンセンスである)」
哲学を専門領域とする大学教授とは思えない刺激的な言葉で、きょうの講演ははじまりました。冒頭の言葉は、土屋先生が信奉し、哲学研究のパラダイムを変えたと言われるウィトゲンンシュタインという研究者が言ったものだそうです。
ここで「ナンセンス」というワードで表現しているのは、1.「言葉の規則に違反していること」2.「説明として不適切な表現になっていること」、3.「問題の設定そのものに意味がないこと」だとのこと。
土屋先生は、1の例で言えば、数試合ヒットが出ない野球選手が「最近、スランプ気味で…」と言うのが規則通りの言葉の使い方であるのに対して、規則違反の例として「生まれた時からずっとスランプで困ってます」などという表現を紹介してくれました。ある場合、ある範囲で使用されている時には問題なくても、限度を超えて使用すると違和感が生じるものです。
2の例では、野球解説者が「ボールに力ないから打たれるのですよ」とコメントする例をあげていただきました。一見正しいようですが、よくよく聞いてみると、ボールに力がないから打たれるのか、よく打たれるからボールに力がないと解釈しているのかわからない時があり、表現としてトートロジーに陥っている場合が多いそうです。
これらと同じように、哲学で語られる問題、例えば「人間はいかに生きるか」「世の中で何に一番の価値があるか」「昨日の自分と明日の自分ははたして同じか」といった問いかけの多くは、そもそも深く考えて、答えを出す程たいそうなものではないとのことです。
そう言われればそうかなあと思うような難解な説明ですが、最後の質疑応答の中で土屋先生が紹介してくれたところによれば、ウィトゲンシュタインは「哲学は、規則違反を犯した言葉の使い方に、深淵さを感じた人間の錯覚からはじまった」とも言っているそうです。確かに「われ思うゆえに、われあり」というデカルトの有名な哲学原理は、「思う(考える)」という行為と「存在する」という現象を無理やり因果関係で結んでおり、あきらかに言葉の規則に違反しています。しかしながら、なぜかそこに深淵な真理の香りを嗅ぎとった我々の先達は、永遠に答えのない不毛な思索の旅を積み重ねてきたということでしょうか。
さて、この話を聞いていて、土屋先生がなぜ「笑い」に関心が深いのか分かったような気がしました。かつてブログでも紹介しましたが、土屋先生の文壇デビュー作『われ笑う、ゆえに我あり』の書き出しは、「以前から書きためていたものがかなりの量になり、しきりに出版を勧めてくれる人が周りにいなかったので、自分から交渉した結果がこの本である...」という一文からはじまります。これもまた言葉の規則違反に他なりません。規則を逸脱した使用や組み合わせが、ある時は「哲学」として深淵に尊ばれ、ある時は「ユーモア」としてこころに潤いを与えてくれる。実は、「哲学」と「ユーモア」は表裏の関係であったというわけです。
まさに、「笑う哲学者かく語れり」です。
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