KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2008年05月30日

ひるがえる「錦の御旗」 『海舟が見た幕末・明治』(第八回)

1867年(慶応3年)10月、薩長が武力倒幕への道を強引に進めようとするのに対して、武力対決なしに、新国家を建設しようとする穏健派の動きも活発化します。その先頭に立ったのは土佐でした。
10月3日、土佐藩主山内容堂は、後藤象二郎を使いとして、慶喜に対して「大政奉還」を建議します。
「新政府綱領八策」と称されたその建議の内容は、6月に坂本龍馬が後藤に示した「船中八策」に基づいており、更に遡れば、かつて大久保一翁と勝麟太郎が、龍馬に語った構想にその原型がある、と半藤さんは言います。
・朝廷を中央政府として議会を作る
・幕藩体制を解体し、中央集権的な立憲国家をつくる
・その第一ステップとして、大政奉還を行い、徳川も一藩として、新体制に参画する
それが、「新政府綱領八策」の主張です。
後藤象二郎から事前にその内容を聞いていた薩摩(西郷、大久保)は、この案に断固反対の立場を取ります。すでに武力倒幕へとかじを切っていた薩摩にとって、徳川存続を前提とした穏便策は、許容できるものではなくなっていました。
10月6日、大久保一蔵と品川弥二郎の二人が、隠遁中の岩倉具視を秘かに訪ねます。
そこで幕府討伐にかかわる謀議が行われました。討伐の段取りと新体制、組織案と同時に、後に切り札となる「錦の御旗」の作製指示も伝えられました。


10月8日、小松常刀、西郷、大久保の連署で、倒幕派の公家に対して倒幕の密勅降下を請う書が送られます。
10月13日、これを受けて、薩摩藩主に倒幕の密勅が下ります。同時に長州に対して朝敵赦免、官位復位の沙汰書が下り、翌日には、長州にも同様の密勅が下りました。
朝敵側と討伐側の立場が180度入れ替わった瞬間でした。
実はこの密勅は、岩倉の策謀のもと、親薩摩、親長州の一部公家による独断発行によるもので、正式文書としてオーソライズされたものではない、偽密勅であったことが定説となっているそうです。
同じく10月14日、密勅を知ってかしらずか、徳川慶喜は「大政奉還」を建白書として奏上します。この慶喜の行動が、どのような戦略、判断によるものなのか、慶喜を擁護する立場と批判する立場で、識者の見解も割れているそうです。
朝廷に政権担当能力がないことを見越し、引きとめが入ることを想定していたとする説
薩長の工作を察知して、妨害するための高等戦術であったとする説
本気で朝廷に忠義の意を表明しただけだとする説。
歴史をどう見るか、面白いところです。
10月15日、慶喜の予想を覆して、朝廷は建白書を速やかに受領、趣旨はわかったが、大名会議で議論のうえ決定するので、しばし待たれよとの沙汰が下ります。
「大政奉還」の大ニュースを受けて、世間では、物騒なデマが飛び交います。
幕府内では強硬論が沸き起こり、旗本を総動員して京・大坂で薩長と一戦交えるべしといきり立ちます。しかし慶喜は動きません。
すでに倒幕意志を固めている薩長は、大名会議開催までの一ヶ月余を最後の準備期間とし、兵力を整え、作戦を練る一方で、「錦の御旗」の作製に励みます。
朝廷内でも、密勅の事実が周知されていたわけではなく、見解統一に向けた最終工作がはじまりつつありました。
晩秋の京都は、決戦に向けて嵐の前の静けさに、つかの間包まれていました。
そんな京都で、坂本龍馬が暗殺されます。11月15日のことです。
下手人は幕府見廻り組佐々木只三郎以下7人とされていますが、幕末最大のヒーローの死をめぐって、裏で糸を引いた真犯人は誰か、歴史家の諸説は賑やかとのこと。
半藤さんは、薩摩謀略説を取ります。
なぜなら薩摩には、動機がある。龍馬の挙国一致論と薩摩の倒幕論では立場が異なる。龍馬の発想・行動力も薩摩には脅威であった。「一言で言えば邪魔!」とのこと
大久保が、暗殺前日に京都に入っていることも、意味ありげだと言います。
それまで経緯から薩摩は知りえる立場にあった龍馬の居場所を、秘かに見廻り組に伝えたのではないかと半藤さんは言います。
犬猿の仲であった薩長を仲介し、歴史の歯車を大きく動かす殊勲をあげた龍馬が、仲介した相手から抹殺される皮肉。
動乱期の歴史は、いつの時代も「きのうの友は、きょうの敵」というところでしょうか。
さて、つかの間の政治的空白は、11月の末をもって終わりを告げます。
まず、長州が先発隊1000人を摂津浜に上陸させます。軽いジャブ。
公式には赦免を受けていない長州の行動を、幕府が問題視しようとすると、朝廷は見透かすように12月8日、長州を正式赦免、入京を許可します。今度はフック。
同時に岩倉も蟄居謹慎を許され、満を持して表舞台に登場。参議となって、かねて構想していた「慶喜はずし」の新体制樹立に取り掛かります。
12月9日、「王政復古の大号令」が発せられます。
国家機構としての旧来の官職はすべて廃止され、有栖川親王を総裁とし、議定10人、参与20人からなる新政府が樹立されました。 
慶喜は締め出されて無役、薩長土肥を中心としたクーデターの完成です。 強烈なワンツーストレート。
それでも慶喜はがまんをします。
9日午後、新政府による最初の会議「小御所会議」が開催されました。
西郷は、事前に御所を取り巻く門を占拠、穏健派の公家の参内を阻み、外部から強烈な圧力をかけます。
会議の議題は、徳川の所領の扱いでした。岩倉、大久保は、全領地の没収を主張。容堂や春獄は、それはやり過ぎと藩論します。
会議は夕方5時に始まり、夜中の12時まで続く激しいものでした。
倒幕派の代表選手は岩倉具視、対するは山内容堂。両者怒鳴りあいの論争に発展しました。
休憩時に、会議の膠着状態を知った西郷は「議論は無用、短刀一本あればケリがつく」と岩倉をけしかけます。
岩倉は、決心を固め、容堂刺殺をも覚悟のうえ、事を迫ろうとしたところで、形勢不利を察知した土佐が折れ、徳川の領地没収が決定します。
幕末動乱の中で、何度も命を張ってきた猛者達とお殿様では、修羅場での迫力が違いました。
慶喜にとって、ダウン必死のアッパーカットでしたが、それでも我慢をつづけ、その夜のうちに、二条城を捨てるように去り、大坂へと逃げていきます。
慶喜が最終決戦のラウンドに上がってこないことには、ゴングを鳴らすことができません。
西郷は、慶喜の「がまん戦術」を打ち破るために、江戸での撹乱作戦に着手します。
事前に江戸に送り込まれていた益満休之助が、浪士団を結成し、盗用・放火の騒ぎを起こします。「薩摩の仕業」と風評を起こし、幕府側を刺激するためでした。
12月23日には、江戸城二の丸が放火?により炎上。我慢ならない幕府側は、薩摩江戸屋敷を焼き討ちにかけます。
事ここに及んで、ついに慶喜は決断。「討薩の意」を表明して京都進撃を指示します。
1868年(慶応4年)1月3日、「鳥羽伏見の戦い」が開戦します。
兵力は倒幕軍が5千足らず、徳川軍は1万5千人。圧倒的に優勢にあるはずでした。しかしながら、薩長の駆使する最新の銃器と近代的戦術の前に苦戦、一進一退の膠着に陥ります。
1月5日、淀川北岸に三本の「錦の御旗」がひるがえります。
それを見た瞬間、慶喜は戦意喪失。得意の「こころ変り」を見せて、江戸へ帰ろうと言い出します。
この時、全ての流れは決しました。

メルマガ
登録

メルマガ
登録