KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2008年07月02日

何が若者を苦しめるのか 本田由紀さん

「若者と仕事」に関わる問題に対する識者の見解は、大きく3つに分かれます。
ひとつは、「自己責任」を強調する論。
厳しい時代だからこそ、本人(若者)が強い意思と明確な目標をもって努力しなければいけないという論調です。ご本人がたいへんな苦労をして成功を掴んだ方に多い意見です。
いまひとつは、若者に寄り添いながら、彼らが意欲と希望をなくさないように温かいメッセージを送ろうというもの。
以前、夕学にも登壇いただいた玄田有史先生は、こちらに近いスタンスではないでしょうか。
三つめは、若者に寄り添うスタンスは同じながらも、彼らを産み出した社会そのものを厳しく糾弾する論
本田先生は、この立場ではないかと思います。実証的なデータに基づきながら、若者を疲弊させ、絶望させる何ものかを明確にしようという姿勢です。
本田先生が、各種データもとに「若者の働き方の変化」を分析した結果によれば、「全ての若者は苦境にある」そうです。
正社員は「過剰な労働」に、非正社員は「過少な賃金・安定」に、それぞれ押しつぶされていると言います。


この変化の模式図は、学校と仕事の結節点の変化を描いてみるとよく見えるそうです。
高度経済成長期から90年初頭まで、若者は、3/31付で学校を卒業すると、4/1付で就職をすることが当たり前でした。学校と仕事が隙間なく連結しており、そのまま受け渡しがなされていました。本田先生は、これを「赤ちゃん受け渡しモデル」と名付けています。たとえ若者が未熟でも、仕事の側が一から育てる責任を引き取ってくれるという意味を込めています。
ところが90年半ば以降、「赤ちゃん受け渡しモデル」に乗っかれる若者は、全体の7割程度で、残り3割の若者は、未熟なままで受け皿なき社会に放り出され、流浪者のように仕事の周りをさまよい歩くことになりました。
しかも、この「ダブルトラック化」の弊害は、両者が、相対立する原理で成り立っているゆえに、大きな移動障害・処遇格差となって表出してきました。
日本の場合は、正社員として就職するということは、会社という共同体の一員になることと同義なので、たとえ仕事内容がまったく同一であったとしても、正社員と非正社員は、それだけで、「共同体の内と外」という対立項に位置づけられてしまうからです。
また、「仕事-家庭-教育」という循環モデルが機能しなくなったこともあるそうです。
我慢して仕事をして家族を養う。家計を切り詰めてでも教育に投資をする。苦労して勉強すればよい会社に入れる。そんな典型的なサイクルが崩壊しています。
本田先生は、このサイクルが、ある「ゆがみ」を内包していたことに、問題をより深刻化させる要因があったと分析しています。
家族のため、子供のため、就職のため...
「仕事-家庭-教育」のいずれの段階でも、次への希望に過剰に寄りかかって、現在の満足を追究しきっていない点です。モチベーションの源泉が次への期待しかないとすれば、次への期待が絶たれた時に、いまの世界が崩壊することは自明なことかもしれません。
また、本田先生は、現在の「若者の論じられ方」にも強い違和感を持っているようです。
「働かない(働こうとしない)奴は駄目!」という前提のうえに、すべての言説が作られ、フリーターやニートという言葉が、ダメな人間の代名詞として流布しているのではないかと鋭い指摘です。
本田先生が把握できる実証データには、「働く意欲のない若者が増えている」という事実はなく、ニートの多くも、何もせずに悶々としているのではなく、何かしようともがいているのが実像に近いそうです。
にもかかわらず、彼らに貼られた「ダメな奴」のレッテルが自信を失わせ、意欲をそいでいることになりはしないかという問題意識が、本田先生にはあります。
スタートでほんの少し躓くと、リターンマッチが途方もなく難しくなる社会構造
躓いた人々に、ダメ人間のレッテルを貼り、更に意欲を減退させている人々の意識
「ここに一番の問題がある」本田先生は、そう考えているようです。

では、どうすればよいか。
本田先生は、学校と仕事の間に、ある種の「緩衝地帯」をつくることを提唱しています。
学校と仕事が隙間なくつながるのではなく、その間に緩やかで柔軟な中間地帯があって、ゆっくりと考えたり、いろいろな仕事を試したり、決めた進路を転換したりする。そんなイメージでしょうか。
政治家が口にする「強制ボランティア論」ではなく、もっと柔らかく、緩やかなものでしょう。
本田先生は「ほどほど感」という言い方をされました。
そこで若者が身につけるべきは「柔軟な専門性」だという方向性も指摘されました。
こちらの理解は、私も十分ではありませんが、やはり、ギチギチに決め込むのではなく、かといって、何でもありでもなく、途中変更可能な、前向きな意欲のきっかけとなる、入口としても専門性を磨くことだそうです。
本田先生の指摘は、私たち企業人にとっては、気持ちの良いものではないでしょう。
私たちが、心底に隠して気づかないふりをしている「弱み」を、チクチクと突いてくるからです。
「自分は弱者ではない」という傲慢さと、「自分の子供が弱者にならなければいい」というエゴの存在を、見透かされているような気になります。
こころのどこかで、「若者と仕事」の問題を、他人事として受け止めている自分への糾弾のようにも聞こえます。
本田先生は、ある世界が“まっとうである”ことを示す基準として次のようにまとめています。
ある時点で、不利な状態に陥った人がいつまでも不利でい続ける必要がなく、
人々ができるだけ不利にならないための準備や支援が幅広く提供されており、
人々が自分の尊厳と他者への敬意をもって生きていくことができる。

日本が“まっとう”な社会であって欲しいと願う気持ちに、誰も変わりはないでしょう。
「若者と仕事」の問題も、“まっとう”な社会を考える論点として理解する必要があるのかもしれません。

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