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夕学レポート

2008年07月30日

型の文化としての和歌  冷泉貴実子さん

京都御所は、京都のほぼ中央に位置し、今出川通りを挟んで同志社大学キャンパスと隣接しています。私は学生時代を京都で過ごしたので、かつて、よくこの道を通りました。今出川烏丸の交差点から少し東に進むと、古い土塀に囲まれた風情たっぷりのお屋敷があったことを記憶しております。当時は知りませんでしたが、これが1790年に建てられた冷泉家のお屋敷でありました。
冷泉家は、俊成・定家親子を祖に持つ「お公家さん」の家柄です。藤原定家の名は「新古今和歌集」「百人一首」の選者として、誰もが知る歌人ですね。
冷泉家は、代々「歌のいえ」として、800年以上も続くお家柄です。
明治以降、多くの公家が東京に移り住んだにもかかわらず、冷泉家は京都に留まりました。
時を経て、多くの公家屋敷が取り壊され、京都御苑として整備されていった中にあって、今出川通を隔てていたという幸運もあって、由緒あるお屋敷と数多くの典籍を守り続けてきました。
冷泉貴実子さんも、その伝統を受け継ぎ、俊成・定家の流れをくむ冷泉家の文化継承に力を注いでいます。


冷泉さんのお話を伺って改めて感じたのは、和歌というのは、プロトコルの上に成り立つ「型の文化」なのだということでした。
季語や枕詞、掛詞などの決まりごとやルールに加え、貴族社会の習俗や慣習を前提に成り立っています。和歌をたしなむにあたっては、教養としてそれらをわきまえている必要があります。
さらに、われわれが和歌を理解するのに障害となるのが、季節感の違いにあるようです。冷泉さんは、太陰暦に則って営まれていた、かつての生活リズムについて詳しく解説をしてくださいました。
月の満ち欠けを基準にする太陰暦によれば、本日(7月30日)は6月27日。太陽暦と比べて、一ヶ月強のズレがあります。これを年の初めに当てはめて考えてみると、旧暦の元旦はに現在の2月初め「立春」にあたります。かつては春の始まりと年の始まりは限りなく一致していたということになります。
当然ながら、「立春」の持つ意味合いや季節感は、現在とは異なるわけです。
三日月が、三日目の月であるように、太陰暦では、月を見ればきょうが何日なのかわかったわけですから、人々は毎日の月の形や位置の変化に敏感でした。
わずかな満ち欠けの推移に時の移ろいを感じることができました。かつて夕学に登壇された千宗室さんが「月を見よ」とおっしゃった意味が改めてわかるような気がします。
また、冷泉さんは、「昔の人は、季節を温度ではなく、光で感じていました」とも教えてくださいました。
波の大きな温度とは異なり、光=日の長さは、微細ではあるものの不可逆的で、着実に時を刻んできれます。昨日よりきょう、きょうより明日、ほんのわずか長く(短く)なっていく光の変化を昔の人は敏感に感じ取ったのでしょう。
日本文化特有の繊細さは、この感性を理解しておかないと共有できないのかもしれません。現代人には、なかなかに難しいことです。
春夏秋冬に抱くイメージも現代とは少し違ったとのこと。
たとえば、私たちは、夏は開放的な行動の季節というイメージを持っていますが、かつての人々にとって、夏は疫病の流行る「厄」の季節でありました。
同様に、秋に対しては、物思いにふける感傷的な季節というイメージを、私たちは抱いていますが、かつては、恋がはじまる喜びの季節だったとか。
そんな知識を教えていただきながら、冷泉さんが選ばれた二十の和歌を季節ごとに解説していただくと、私たちが如何にものを知らないか思い知らされてしまいました。
短歌(近代短歌)と和歌の違いもたいへん印象深いお話でした。
冷泉さんによれば、同じ七五調の句体をとってはいるものの、短歌(近代短歌)と和歌は、本質論において、似て非なるものだといいます。
短歌(近代短歌)は、自我を歌うもの。つまり「わたし自身」の感性を表現します。
しかし冷泉家に伝わる和歌の精神は、普遍性を歌うもの。つまり「あなたもわたしも」同じように理解し、感ずる美の共通世界を表現しようとするものだそうです。
短歌(近代短歌)が、「芸術」であるのに対して、和歌は、「芸」、「技」である。自由な感性にまかせて思うままに歌うものではなく、プロトコルに則って、知性と技術を競い合うもの。そんな感じでしょうか。なるほどという感じがします。
「和歌はどこで習うことができるのでしょうか」という質問に対して、「冷泉家に来てもらうしかないんですよね。通信教育でも作りましょうかね」とおっしゃった冷泉さん
控室でお聞きしたところでは、和歌の現状を冷静に分析されていました。
「この100年、和歌が近代短歌に席巻されてきた理由は、社会が和歌を必要としなくなったからかもしれない。すでに宮中歌会でさえも近代短歌に変わってしまった」
和歌に代表される「型の文化」は、能、歌舞伎、茶の湯等々、あらゆる日本文化に共通した精神でした。
世阿弥は、「守・破・離」をとなえ、型を守ることと型を離れることの両方を説きました。茶の湯が、今日の「茶道」として伝承・育成の仕組みを整えた近代的システムに発展してきたのも、何度かの危機と革新を経た結果だとも言えます。
和歌と近代短歌の違いは、同じ流れに乗った伝統革新なのか、そうでないのか。私にはわかりません。
ただ、「和歌のこころを伝える」という強い使命感を持った冷泉家という資産が残っているという奇跡を喜ぶだけです。

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