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夕学レポート

2008年08月04日

音楽のようにドストエフスキーを体験する 亀山郁夫さん

一昨日、旧ソ連の反体制作家であったソルジェニーツィン氏が亡くなりました。
亀山先生には、昨夜から今朝にかけて、全ての大手新聞社からコメントを求める取材依頼があったそうです。「ロシア文学といえば亀山郁夫先生」、誰もがそんな連想を働かせているということなのでしょうか。
『カラマーゾフの兄弟』は100万部近い販売を記録する勢いだそうです。活字離れが喧伝される今日、ロシア古典文学の翻訳本としては驚異的な数字です。
以外なことに、きょうの講演によれば、亀山先生は、中学生の時に『罪と罰』を読んで以来、読者としてドストエフスキーに耽溺してきた事実はあったものの、研究者としては、長らくロシア前衛文学研究に勤しんでおり、どちらかと言えばニッチな世界の研究者で、トルストイ、ドストエフスキーといったロシア文学の王道に取り組み始めたのは、50代を過ぎてからだったそうです。
『カラマーゾフの兄弟』翻訳にあたって心がけたのは、「映画をみるように、音楽を聴くように『カラマーゾフの兄弟』を体験してもらうこと」だったそうです。
亀山先生によれば、翻訳者には二通りのタイプがあるとのこと。
ひとつは科学的、分析的に訳をすすめる方法で、「耳の良さ」=言葉の意味の差違に対する鋭い感性を必要とするそうです。こちらが常識的な翻訳アプローチになります。
亀山先生がとったのは、芸術的な感性を重視して訳に取り組むやり方で、ディテールにこだわるよりは、感覚として作品を理解することを重視します。
亀山先生曰く「私は耳がよくないので...」ということでしたが、かつて自分が味わった感動を現代の若者と共有する意味でも、現代語訳をしたかったという思いにかられてのことだそうです。
『カラマーゾフの兄弟』の原文は、破壊的な文体で書かれており、逐語訳では現代人には難解で読むことができないそうです。
それに対して亀山先生は「アルマーニを羽織ったドストエフスキー」に生まれ変わらせようと思ったとのこと。
音楽のように翻訳をするというリズム重視の訳は、誤訳を生む可能性を内包します。
亀山先生は、訳にあたって第5稿まで目を通したそうですが、5稿では原文を一切見なかったそうです。その結果、誤訳問題が週刊誌上を賑わす事態を招いたと反省をされていました。(現在は、全ての訳を再チェックし、当初の翻訳思想を活かしつつ、あきらかな誤訳部分は修正したとのこと)
講演の後半は、ドストエフスキー論に入っていきました。不勉強にも私はドストエフスキーの著作をほとんど読んでいない(憶えていない)ので、先生が言及された「親殺し」というテーマに関わる深い世界は十分に理解できませんでした。
ただ、ドストエフスキーが『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を書いた19世紀後半が、帝政ロシアの終末期であり、抑圧されてきたエネルギーの充満と自由への希求に満ち、その裏返しとしての金銭への執着と人間性の喪失が同時に起きていた混乱の時代であったということはわかります。社会秩序の崩壊が人間の内面世界の崩壊にも繋がりかねない「弱さ」を、私たち人間は常に内包しているのかもしれません。
100万部近いベストセラーになった『カラマーゾフの兄弟』
亀山先生によれば、ここまで売れた要因のひとつに、地方の本屋さんの後押しがあるのだそうです。この本を単なるブームに終わらせず、古典文学コーナの常設につなげたい。という熱い要望があるとのこと。
活字離れが進むのと反比例するように本の出版数は増加し、書店の品揃えがコンビニの商品棚のように激しく入れ替わるようになって久しいと思います。最近では岩波文庫を置いていない本屋さんも増えました。
本屋の方も、そういう本の売り方をこころよしと思っていたわけではないのでしょう。時代を越えて読み継がれてきた古典を大切に売っていきたい。そんな心ある本屋さんの思いを可能にしてくれた意味でも、『カラマーゾフの兄弟』新訳は価値があったと言えるのではないでしょうか。

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