KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2009年04月13日

歴史から学ぶ「日本発の資本主義」 中谷巌さん

リーマンショック以降、金融危機の発生原因や新自由主義的経済システムの限界を謳う書籍は、それこそ山のように出ました。
その中で、毀誉褒貶相半ばする形で、最もインパクトをもって取り上げられたのが中谷巌先生の『資本主義はなぜ自壊したのか』でした。
では、中谷さんは、なぜ「転向」したのか。
「アメリカ発経済学」の理論で、全てを考えると「マズイ!」と思わせたものは何だったのか。
その理由を語ることで、これからの日本経済の方向性を示唆する。きょうの夕学は、そんな2時間になりました。
「アメリカ発経済学」はシンプルでクリアな理論と言えます。経済においても、政治においても、極めて民主的なオープンなシステムで成り立っています。
「資源の再分配」については、マーケットメカニズムに委ねることを第一義とします。
一部特権階級に富の配分を委ねるのではなく、全ての人が参加できる「市場」における需要と供給の自己調整機能に任せることで、「神のみえざる手」が働くと考えました。(この慣用句の使い方も要注意だと堂目先生から学んだばかりですが...)
市場に委ねるのに相応しくない公共財(教育、貧困対策、地方対策)などは、選挙によって決まった政府に任せることで、民意を反映させることができます。


そんな素晴らしいはずの「アメリカ発経済学」の欠陥は何か。
本では三つ触れていますが、講演では二つに絞って解説をしていただきました。
ひとつは「経済の不安定性」です。
これは、「アメリカ発経済学」が投機的な性格を持つことの裏返しでもあります。
必要だから買う(実需)のではなく、儲かるor儲かりそうだから買う。実態価値とは無関係に需要が生まれ、価格が形成され、売れるから供給が加速する。それがグローバリズムと結びつくことで、政府の規制や社会制度を越えて、世界中に広がる。
やがてそれがバブルとなり、必然として崩壊する。バブルの規模はどんどん大きくなり、はじけた時の衝撃は甚大となる。100年に一度の危機はこうして起きた。
「アメリカ発経済学」路線を歩む限り、「経済の不安定性」はこれからも避けられない。
それがひとつめの欠陥です。
ふたつめの欠陥は「格差の拡大」です。
閉鎖的な経済システムであれば、労働者が消費者でもあるわけで、需要を増やすためには、給料を上げなければならないという「所得再分配」のインセンティブが働きます。
ところが、グローバル経済に突入すると、このインセンティブが起きません。
もっとも安価の労働力を提供してくれる地域や国を求めて、工場は移転を繰り返し、もっとも高く買ってくれる地域や国を求めて、市場を移せばよいことです。
貧しい国は、ずっと貧しいままでいた方がよい。富める国は益々富むほうがよい。という格差拡大のインセンティブさえ働いてしまいます。
日本の労働市場のように市場メカニズムが働かないところでは、弱い立場の人々にシワ寄せすることで調整機能を代替しようとします。
年末の日比谷派遣村は、こうして生まれた「アメリカ発経済学」の鬼っ子とも言えます。
中谷さんは、世界規模で起きている「格差拡大」現象をみて、マーケットメカニズムが、強者(支配階級)による弱者(被支配階級)に対する支配ツールとして使われているという暗澹たる印象さえ持つと言います。
さて、こうした欠陥はなぜ生まれたのでしょうか。私達日本は、どうすればよいのでしょうか。
中谷さんは、西洋や日本の歴史を繙きながら説明をされました。
アングロサクソンの価値観は、自分たちの信奉する「自由と民主主義」を普遍的な価値観と捉え、それを遅れた地域に啓蒙することが、自らが神に与えられた使命だと考えている。
だから彼らの膨張は止まらない。中谷さんはそう言います。
同じキリスト教社会でも、大陸欧州国家は、数百年の民族戦争・宗教戦争を経て、普遍の正義への懐疑心を持っている。互いが違いを認めあう「相互承認」こそが、共生社会を実現するという信念を持っている。
先のG20会議で起きた英米VS独仏の意見対立は、そういった歴史的・文化的な文脈で読み取るべきだ。中谷さんはそう教えてくれます。
「自由」への盲目的な信奉と、むきだしの「自由」を制御することが成熟した国家だとする信念との価値観論争でもあるわけです。
「自由」の処遇については対立する欧米社会ですが、「格差の拡大」について、鈍感に過ぎるという点で共通点があるそうです。
階級社会が続いてきた欧米では、エリートが仕組みを作り、低階層の人々はそれに従う(時に暴発する)という対立の図式が定着しきた。下層社会に属する人々は、健全な上昇意欲を持つことを忘れ、目の前の快楽追求に溺れることに疑問さえももたなくなっている。
「格差の拡大」が進展することに怒りはするが、努力してそれをなくそうとはしない。
それが欧米社会だと中谷さんは指摘します。
では、日本はどうすればいいのでしょうか。
日本は、どのようにして外来文化・技術を取り入れ自分のものにしてきたのか。
日本社会は、弱者や敗者をどのように遇し、扱ってきたのか。
歴史や文化の中に道筋が見えていると中谷さんは言います。
自身の思索の変遷を揶揄しながら、「日本人はすぐにかぶれて突き進む。でもやがて冷めて元に戻ってくる。しかも無節操なまでに良いところだけを取り入れて...」
と分析されました。
松岡正剛さんが「日本という方法」で指摘した、日本人のデュアル思考と同じ視点といえるでしょう。
近代化から150年。全員が洋服を着るようになったけれど、けっして西洋人にはなっていない。柔軟だが芯を失わず、融通無碍に変わっていける。
そんな日本の「したたかさ」を資本主義に注入することなのかもしれません。
江戸時代の寺子屋は1万~2万はあったのではないかと推測されるそうです。人口が3000万人であったことを考えれば、現代社会のコンビニ並の普及率です。
日本では、低中級階層の人々も希望を失わず、将来のために勤勉にあいつとめました。
子孫のために、先祖に報いるために、贅沢を戒め、限られた資源を大切に守り育てながら次代に繋いでいく、庶民の基礎パワーがありました。
いまの富だけでなく、持続的な富の再形成を重視する価値観。それを資本主義に埋め込んでいくべきではないでしょうか。
しかも、自覚的に、胸を張って、堂々と諸外国に説明する気概を持って....

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