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夕学レポート

2009年06月09日

オペラにかける情熱 三枝成彰さん

東京では、毎日約35,000人の人々が西洋音楽を楽しんでいるそうです。山手線内に2,000人収容できる音楽ホールが10カ所あり、ほぼ毎日埋まっている。その他の中小会場を含めて考えると、上記の数字になる、とのこと。
世界で名だたるオーケストラや一流の演奏家が引きも切らずに来日し、いずれも演奏会が超満員になってしまう。こんな都市は世界中にない。
ところが、その狂躁は、東京一極だけのことで、大阪も名古屋も音楽ホールは青息吐息。地方にいたっては悲惨な状況である。国や財界の関心もかつての勢いはなく、財政支援は減るばかり。有望な音楽家を世界に送りだそうというパトロン文化も失せてしまった。
この現象をどう理解し、何をすればよいのか。控室での三枝さんは、西洋音楽への愛情とその裏返しとしてのやるせない想いを交錯させながら、日本の現状を教えてくれました。


さて、本題です。
オペラは、ラテン語の「opus」の複数形に由来し、「作品」という意味だそうです。作曲、歌唱、演奏、舞台芸術、脚本、演出等々あらゆる領域を統合した総合芸術「作品」ということでしょうか。
オペラが生まれたのは400年前と言いますから、クラシック音楽の歴史とほぼ重なり合います。同じ音楽劇であっても150年の歴史しかないミュージカルとは、本旨的な部分が大きく異なるとのこと。
ミュージカルが大衆に向けた、分かり易さを重視したのに対して、教養ある貴族社会に向けて作られたオペラは、むしろ難解であることを良しとし、観客の教養や解釈を試すことを旨としていました。
400年の歴史のうち最初の200年、つまり伝統的なオペラというのは、全てイタリア語で、ギリシャ神話を題材にし、男性だけで演じられていたそうです。
当時の欧州貴族の教養語であったラテン言語を操ることができ、ギリシャ・ローマ文化の素養持つ、男性社会の高尚な芸術でありました。
やがて、フランスやドイツへと伝搬する過程で、女性の歌手が登場し、言語も現地の言葉に変わり、ストーリー性をもった作品が生まれ、現在のオペラに近い形式が完成されてきたそうですが、難解であること、受け手の解釈力を問うことは変わりませんでした。
三枝さんによれば、オペラは、反合理性、反効率性、反経済性の権化のような芸術で、「あきれるほど長く、無意味に登場人物が多く、ストーリーが複雑で、やたらと大きな声で歌い、最後は悲劇的な結末を迎える」ものであるとのこと。
こう書くと、オペラ批判のようになりますが、三枝さんのお話からは、そんなオペラが、いえ、そんなオペラゆえに、好きで好きでしょうがない。という愛情が伝わってきます。
三枝さんが企画・制作・プロデュースしたオペラ『忠臣蔵』は、4日間の公演のために費やした金額は、なんと5億2千万円。収入はたったの4千万円。残りの4億8千万円に、三枝さんが奔走して、スポンサーを集め、私財を投じて実現した大プロジェクトだったそうです。
「スタッフ500人の弁当代だけで、1日:5百万円が飛んでいくのですよ!」
今では、ネタとして笑いを取る三枝さんですが、その心労は並大抵のことではなかったでしょう。
にもかかわらず、懲りるどころか、今後83歳までに制作予定のオペラのラインナップまで決まっているといいますから驚きです。
日本人は、音楽を感性や情緒で聴くものだと考えるが、西洋人は違う。音楽をメッセージとして理解しようとする。
この指摘は、かつて茂木大輔さんがお話されたことと同じでした。
たとえ、原曲は同じであっても、現代の社会情勢・政治環境を受けて、オペラを通して何を伝えようとしているのか、何を風刺しているのか、それを読み取り、「俺はこう思う」という議論が沸き起こることが、オペラの楽しみ方だそうです。
皆さんも是非、挑戦してみてください。
ちなみに、来年2月には渋谷オーチャードホールで、『忠臣蔵(改訂版)』を上演するそうです。前回の反省を活かして、今度の費用は1億2千万円だそうですが、それでも収入で賄うには到底足りません。
「オペラをやるために働き、オペラのために過去の財産を投げ捨てているみたいですね」
そう自分を評しながらも、自分の生き方から、何かのメッセージを読み取って欲しいのではないか。冒頭の東京一極集中現象の話題と併せてみると、そんな気がしました。

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