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ピックアップレポート

2014年01月14日

柴田 文啓「第二の人生を僧侶に!」

柴田文啓
開眼寺 住職

世のため、人のために、なにか仕事をしたいと思う心は、人間の自然の本性です。それを仏教では「自利(自分を利する)」に対して、「利他(他を利する)」という言葉で表しています。

社会の第一線で働く仕事を終え、また次世代を担う子育てを終えて、純粋に「利他」の心で仕事ができるのは、われわれにとっては六十歳以降ではないでしょうか。
その意味で日本の社会は、いわば「定年」という言葉のない社会、すべての人が「生涯現役」で人生をまっとうできる社会に転換することが必要ではないでしょうか。

私はみずからそれを夢見て、六十五歳から僧侶をめざし、現在七十八歳で現役の僧侶として活動中です。毎朝五時からの坐禅に始まり、多くの人々の生活の輪の中で「利他」を心掛けながら、「日々是好日」の毎日を送っています。

加藤耕山老師との出会い

仏教に「因縁」という言葉があります。因は直接的(内部的)要因といわれ、自分ではどうすることもできない要因です。それに対して、縁は間接的(外部的)要因といわれ、そのなかには自分の意志で呼び寄せることができる「縁」もあるのです。

一九三四年(昭和九年)、両親は私をこの世に出してくれました(因)。出身地福井は信仰心の厚い土地柄です。父は、戦争で亡くなりましたが、母は毎朝、仏壇の前でお経をあげていました。

その姿と声は、私が仏教に関心を持つようになった無意識的要因であったのかもしれません。地元の大学四年の時、二月の一ヶ月間、永平寺に泊まり込み、雲水さんの後についてうろちょろしました。

一九五七年(昭和三十二年)、東京武蔵野にある電気機器製造会社に入社しました。入社後七年間は会社の仕事を学びその実施に注力し続けました。三十歳になったのを機に精神的転換を求めたのでしょう、奥多摩の臨済宗の禅寺、徳雲院の坐禅会に通うことになり、住職の加藤耕山老師との「縁」ができたのです。

わずか三年という短い期間で、しかも日曜日だけの参加でしたので充分なご指導をいただくことはできませんでしたが、「奥多摩の古仏」といわれていた耕山老師は、まことに偉大な禅僧でした。一緒に坐らせていただくだけで、また、ある時は炬燵で一緒にうどんをご馳走になっただけで、老師の大きな存在は、私の心をしっかりととらえてしまったのです。

「人生の最後は、真似でもよいから耕山老師のような生き方を」と思うようになりました。老師との出会いが、四十年後に開眼寺住職、柴田文啓へとつながる「縁」でもあったのです。

耕山老師は一九七一年(昭和四六年)、九十六歳で遷化されましたが、その真の禅僧としてのお姿は、今日もなお語り継がれています。耕山老師とのご縁に心から感謝している毎日です。

六十五歳の雲水新到(新入生)

二〇〇〇年四月、会社の仕事から離れると同時に得度し、滋賀県の山奥にあります永源寺専門道場(僧堂)に入門(掛搭)して、雲水(修行僧)になりました。六十五歳の雲水一年生が誕生したのです。

私はこの永源僧堂で一年三ヶ月お世話になりました。少しでも気を抜くと、大声でどなられ注意されます。時には叩かれます。道場の雰囲気は常に緊張し、いい意味でぴりぴりしています。

私も鍛えられましたが、入門時、雲水のリーダー役の人から「年齢とか過去の身分とか、いっさい無視するがよろしいか」との念押しがありましたので、それは当然のこと。心理的苦痛は全然ありませんでした。

反面、短い睡眠時間、長時間の作務(労働)は、肉体的に厳しい面があります。しかし、一つの目的(「仏の弟子となって、仏に仕える」)に向かって、脇目もふらずに進みますから、慣れてくると、精神的なストレスもなく、淡々と流れるように日々が過ぎていきます。

僧堂では、すべてはイエス・サー。ノー(否)という言葉はありません。世の中の情報は遮断され、こちらからの情報発信(たとえば電話など)は禁止です。ひたすらに経典の読誦、坐禅、そして作務と、あっという間に体重は一割ほど減りました。

規則正しい毎日と、雑事を考えないですむ生活ですから、体調はすこぶる快調で、風邪も皆無の一年三ヶ月でした。

ある時、先輩雲水がぽつりと言われた次の言葉を、今でもはっきり憶えています。「一番仏に近い坊主は雲水かもしれん」。すなわち、雲水は僧侶の原点のように思えます。僧堂を出て二十年、これからもこの気持をずっと持ち続けたいと思っています。

開眼寺住職としての毎日の行

信州更級の里にある檀家一軒の小さな禅寺、開眼寺の第十九世住職として入山したのは、二〇〇一年の八月でした。十三年間、だれも住んでいなかった伽藍は荒れて、埃が一杯でした。永源僧堂より同僚十名が掃除の応援にかけつけてくれました。美しい歴史のある開眼寺本堂と庫裡がよみがえりました。

四時四十五分、開静(起床)。一時間の坐禅に入ります。十一月のある朝のことでした。十一月の五時は真っ暗です。坐り初めてまもなく、子犬ぐらいの大きさの動物が一匹静かに本堂に入ってきました。太い大きな尻尾からみてタヌキでしょう。私の存在に気づいたふうもなく須弥壇の前に行き、くるりと反転して私と反対側の坐禅布団の上にちょこんと坐ったのです。空が薄明るくなってきました。六時少し前でしょうか、静かに退堂してゆきました。

タヌキと一緒に早朝坐禅。山寺坊主の冥利につきます。元気な小鳥の声を聞きながらの二しゅ(※)の坐禅。今日も無事生かされていることに感謝する毎日です。

六時に、庫裡の入口に掛けてある「板」を力一杯敲きます。板の表には「生死事大、無常迅速、時不待人、謹漠放逸」と、墨で力強く書かれており、それを見ながら七・五・三のリズムで打ち続けます。信州の冬の寒空に甲高い板の音が吸い込まれていきます。「生死事大」を肝に銘ずる瞬間です。

本尊(聖観世音菩薩)三拝し、読誦をはじめます。約四十分の朝課(朝のお勤め)は、木魚による心地よいリズムを体に刻み込んでくれます。

禅宗では、掃除は大切な作務のひとつです。お粥の朝食(粥座)を終え、 一休みの後、掃除を始めます。僧堂では日天掃除と言いますが、竹箒の掃き目の美しさは、一種の芸術です。雲水時代、先輩からよく怒られました、「腹で掃け」と。確かに精魂こめて掃きますと、美しい一幅の絵となります。日天掃除は心の掃除でもあります。

朝の日天掃除がおわりますと、後はいわば自由時間です。いわゆる晴耕雨読の生活となります。仏教聖典に「自利利他円満」という言葉がありますが、この豊かな自由な時間を他人のために、また自分自身のために、思う存分に使うことができるのです。

痛ましい自然災害が発生しますと、義捐金集めにすぐ托鉢に出かけます。また、途上国の自立化支援活動(NGO活動)や、知的障害者施設のお手伝いにもかけつけます。

そういった活動のない時は、雨の音を聞きながら坐禅をしたり、縁側で庭を眺めながら静かに坐禅をしています。小さな字の読み物は段々と厳しくなってきましたが、書物の楽しさを久しぶりに味わっています。

ここ開眼寺は、信濃三十三観音巡りの十三番札所になっており、お参りの方が多く来られます。年配の夫婦だけの静かなお参り、バスツアーでの団体巡礼など、小学生から年配の方々まで、多くの人とのご縁も楽しみです。これら一つひとつのことが、「利他」につながり「自利」にもつながることを願う毎日です。

僧侶になって美しい心の文化の構築を

日本は、数少ない仏教文化の国です。日頃、話す言葉のなかにも、また、日常の生活のなかにも、仏教の心が多く存在しています。その意味で、全国に七五〇〇〇を数える寺院は、私たちの先輩が築いてくれた貴重な文化財産です。

残念なことに現在、その三割は住職がいない寺院、あるいは兼務住職の寺院です。いまも経済的理由で無住職の寺院が増え続けています。

そこで、第二の人生に入ろうとされている団塊の世代の方をはじめ多くの方々に、「第二の人生は僧侶になって、美しい心の文化の構築にチャレンジ(挑戦)しませんか」と提案したいのです。

言うまでもなく、現在の日本社会には多くの心の問題が山積みしています。そのことに、まず正面からぶつかっていくことが宗教者の任務です。

「第一の人生」の貴重な経験を生かし、仏教の理念を学び、その理念を基礎として、心悩める人々の問題解決のために、お手伝いをする。あるいは無住寺院を活用して仏教の心を伝え、多くの人の心の安心に寄与する。定期的に坐禅会を催すことなどもその一つです。

多くの場合、仏教寺院は自然環境にも恵まれ、古代インドの哲人の言う「林住期」にぴったりの生活環境でもあります。もちろん、市街地において自宅などを拠点とした仏教活動など、「坐禅会」や「よろず相談所」などの開設も可能でしょう。

私たちの先輩が築き、そして守ってきたこの国の素晴らしい心の文化を、いましっかりと受け止め、次の世代に手渡していくために、意義深く、やりがいのある仕事ではないでしょうか。

自己中心的に過ぎる今の精神文化を正す力にもなるでしょう。有意義な「第二の人生」の生き方といえるのではないでしょうか。

ちなみに、開眼寺が属する臨済宗妙心寺派は、この「第二の人生を僧侶に」のプロジェクトを、宗門をあげて取り組んでいます。関心のある方、面談をご希望の方は下記までご連絡下さい。
妙心寺派宗門活性化推進局・・・(メールアドレス)suishin@myoshinji.or.jp
開眼寺・・・(電話)026-272-5019
(※)「二しゅ」の「しゅ」は「火」へんに「主」と書く。
 

株式会社 春秋社発行『春秋』2013年5月号より著者・出版社の許可を得て転載。無断転載を禁ずる。

柴田文啓(しばた・ぶんけい)
昭和9年福井県生まれ、福井大工学部卒業。
40年以上のビジネス経験を経て、横河電機取締役を退任後、平成11年に得度。平成13年開眼寺住職に就任。臨済宗妙心寺派宗門活性化推進局顧問も務める。
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