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夕学レポート

2014年05月14日

国と地方を分ける意味 橋本大二郎さん

1991年、史上初の戦後は生まれ知事として高知県知事に当選し、4期5選16年の知事経験を持つ橋本大二郎氏
「インテリジェンス」という概念を世に知らしめた外交ジャーナリストで、慶應SDMの教壇に立つ手嶋龍一氏。
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ともにかつてはNHKの報道記者、キャスターとして大活躍をした経歴をもつとあって、オーディエンスは何を聞きたいのかを意識しながら、論旨明快かつ具体的な議論を進めていただいた。
対談のテーマは「地方分権」である。橋本氏のライフワークとも言える。
従って、橋本氏の持論を手嶋氏が広げつつ、突っ込むという理想的な展開で対談は進んだ。
「元祖改革派知事」として、県内の保守派や霞ヶ関と対峙してきた橋本氏は、「地方分権」の重要性と難しさの両方を、身をもって知っており、かつそれを明晰に語ることができる数少ない論者である。
「地方分権」がなぜ遅々として進まないのか
橋本氏はその問題点を、1)補助金、2)法律、3)国と地方の力関係の3つの側面から解説してくれた。
1)補助金の問題
国から地方への補助金は、戦後復興期以来、全国津々浦々の社会インフラ整備に役だってきた。しかし、すでにその歴史的使命を終えている。
1000兆円の借金を抱える国には、もはや地方への補助金につぎ込むお金がない。
地方も、随分と前から「お腹いっぱい状態」に陥っている。
にもかかわらず止むことなく続いている。
補助金の多くは「ひもつき」である。使い方の基準が事細かに決まっている。これに従うと全国どこにいっても同じ規格の道路、橋、施設、街が出来上がる。
そこには個性がない。橋本氏流に言えば「画一化の罠」である。
2)法律の問題
法律の作り方が、地方の声、実情を(実態として)無視している、と橋本氏は言う。
例に挙げたのが「メガソーラー」問題である。
3.11を受けて、再生可能エネルギー買い取りを義務づけた法律が成立したのはいいが、全国各地で「メガソーラー」設置をめぐるトラブルが頻発している。
地元が知らぬうちに、遊休地を買い取った企業が国の認可を受けてソーラー設置を始めてしまい、異様な光景が突如として形成されている。
「メガソーラー」を設置するならば、地域と連携し、売電収益の使い道も地域の課題解決に繋げるべきだ。長野県の飯田市ではそれができつつあるのに。
もっと地方の裁量に委ねることが求められる。
3)国と地方の力関係
端的にいえば、地方版の「政・官・財トライアングル」がもたらす問題である。
公共事業に利権を持つ地方のボスが、選挙応援の見返りに地元出身の政治家に公共事業を陳情する、政治家が霞ヶ関に働きかけ、官僚が地方に補助金を流す。
小泉改革、民主党政権で公共事業が削減されて弱まりつつあるといわれたトライアングルの紐帯は、国土強靱化構想という美名を借りて復活しつつある。
東北沿岸地区で進められている防潮堤復旧事業はその縮図である。何も変わっていない。
国と地方のやるべきことを仕分けして、国は本来やるべき戦略課題に集中すべきだ。問題は山積しているのだから。


橋本氏の指摘する問題はすべて最もな指摘で、まったくその通りだと思う。
一方で、何年いや何十年も前から言われ続けている問題なのに、なぜ変わらないのかという無力感を感じることも正直な感想である。
橋本氏を筆頭に、三重の北川知事、宮城の浅野知事、鳥取の片山知事、岐阜の梶原知事等々、人気と実力を兼備した改革派知事が元気の良かった90年代でも、中央集権化の岩盤を壊すことができなかった。
破壊力を期待されて登場した橋下徹氏は、別のところにその破壊力を発揮してしまった。
安倍首相の頭には、集団自衛権や靖国参拝へのこだわりはあっても「地方分権」のかけらもなさそうである。
英雄待望論が間違いなのかもしれない。
会場からいただいた質問紙の中にこんな指摘があった
「地方自治は民主主義の学校」というジェームス・ブライスの言葉に立ち返るべきだ。
国民が自立し、民主主義のレベルを上げるという国民的議論を活発化させることこそが必要なことではないか。
地方分権の推進は、私達自身に課せられた問題でもある。

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