ファカルティズ・コラム
2011年04月28日
どのような『語り方』で説明すべきか
私たちが何かを説明しようとして、それがうまくいく場合とうまくいかない場合があります。
当たり前の話ですが、すべての説明はその受け手に「評価されて」しまうからです。
では、説明の受け手は「何を」評価しているのでしょうか。
大きく二つに分ければ、それは「説明の内容」と「説明の仕方」で評価されると言えます。
コンテンツとプロセスの両面で説明の善し悪しが評価されているわけですね。
口頭での説明であれば、「語っている中身」と「語り方」なわけですが、これはどちらか一方が高い評価をもらえば良いわけではありません。
どんなに中身が良くても、たとえば相手に本当にため(得)になる話であっても、語り方が悪ければ「確かにその通りだけど…」と反発されたり、「何が言いたいんだ?」と理解されなかったり、酷い時には誤解を生んでしまうことすらあります。
反対にどんなに語り方がわかりやすく、そして相手に心地よい語り口であっても、非常識な内容や相手の神経を逆なでする内容であれば、話を二度と聞いてくれなくなるかもしれません。
ですから、説明においてはこの「内容」「語り方」は”足し算ではなくかけ算”で評価されているのです。
さて、このふたつの要素のうち「内容」については、私たちは誰でも日常的に「良い内容を語ろう」と意識しています。
ところが、もう片方の「語り方」については「内容」ほど気を配っていない(あまり意識されていない)のが現実です。
批評家であり、構造主義哲学にも大きな影響を与えた(本人は構造主義者とみなされることを嫌っていたようですが)思想家であるロラン・バルトは「我々の語法(語り方)は3つの要素に縛られている」と言いました。
ここではそれを『語法の構造』と呼びたいと思います。
バルトの主張を私なりに整理してみましょう。
以下は私なりの解釈および意訳が含まれることをご了承ください。
バルトはこの『語法の構造』を構成する3要素を『ラング(使用言語)』『スティル(嗜好的文体)』『エクリチュール(社会属性的文体)』と呼びました。
3つの中で基盤となるのが『ラング』。要するに「どのような言語を使うか」です。
私たちであればそれは当然日本語であり、結果的に私たちの語り方は日本語の語彙、そして文法に縛られる(則る)のは明白です。
そしてふたつめの『スティル』。これは英語で言えば『スタイル』であり、私たち個人が「どのような語り方を好むか」ということです。
堅い言い回しが好きな人もいれば、柔らかい言い回しを好む人もいます。「ですます」調を好む人、「である」調が好きな人、句読点が多いか少ないか、「~だ」と言い切るか「と思う」と控えめにするか…
これら様々な文体は、私たちの経験や性格に起因する『個人的嗜好』に縛られて(左右されて)います。
しかしこの文体は『個人的嗜好』だけに依存しないとバルトは考えました。
それがみっつめの要素である『エクリチュール』です。
私は勝手にこれを『社会属性的文体』と解釈していますが、要するに私たちは何かを語る際、意識的あるいは無意識的にモードを切り替えているということです。
あるコミュニティにおいて、自分はどのようなグループの構成員なのか。
そのグループの一員としての「ありよう」。それがモードです。
私で言えば、『講師モード』で講座の受講生に語る時、『オタクモード』で友人に語る時、そして『父親モード』でムスメに語る時、すべて違う「語り方」になるということです。
あたかもロールプレイングゲームにおけるジョブチェンジ、ウルトラマンや仮面ライダーが敵によってフォームチェンジを行うように。
とは良いながら、これらを完全に使い分けているわけでもなく、時々ムスメに講師っぽい話し方(妙に丁寧に「○○なわけですね」とか言ってしまう)をしてしまい、「パパ、先生スイッチ入ったでしょ」と言われたりもするわけですが(笑)
私の例を出すまでもなく、私たちは自らの社会的立場(属性)を自分なりに(ある意味勝手に)規定し、それに応じた語り方を選択しているのです。
それもかなりの頻度で無意識的に。
「無意識的な選択」とは矛盾した言い方ですが、私たちは現実に「エクリチュールに縛られて」いることを認めざるを得ません。
「男/女のエクリチュール」「大人/子供のエクリチュール」「上司/部下のエクリチュール」「○○業界のエクリチュール」「政治家のエクリチュール」etc…
様々なエクリチュールを無意識に選択し、「○○モード」の自分として私たちはコミュニケーションを行っているのです。
ファシリテーションの講座で『問いかけ』の練習を行う際、しばしば相手の「今ちょっと困っていること」をテーマにするのですが、なぜか多くの人がまるで『悩み相談のカウンセラー』のようなふるまい(質問の仕方や相づちの打ち方など)になります。
これ、まさに無意識的に「カウンセラーモードのエクリチュール」を選択しているわけですね。
さて、私たちの語り方が『ラング』『スティル』『エクリチュール』に縛られているという現実が理解できれば、おのずとこれから私たちが誰かに何かを語る際、何に気をつければよいかが見えてきます。
「どのような語り方が今適切か?」
これは「相手のラング・スティル・エクリチュールを推察」し、次に「相手とその場にふさわしいラング・スティル・エクリチュールで語る」というステップで見えてきます。
相手が英語圏の人間であれば、当然英語というラングを選択します。
しかしそんな単純なことだけではなく、相手の知識レベルに応じて横文字(カタカナ言葉)を使うべきか否かにも配慮すべきでしょう。
また、その人の外見や話し方、および事前に入手できる肩書きや経歴等の情報から相手のスティルとエクリチュールを推察することもできるはずです。
そして相手が期待し、その場にふさわしいスティルとエクリチュールを「意識的に」選択すれば良いのです。
ざっくばらんな対話を望んでいる相手に、かしこまったスティルで応じてしまっては逆効果。
その道の専門家としてのアカデミックな話を聞きたいと思っている相手に、友達モードのエクリチュールで散文的に語ったら、相手は落胆してしまうでしょう。
このケースであれば、多少難解でも専門用語(ラング)をちりばめ、堅めの少しもったいつけた先生モードの語り口(スティル&エクリチュール)で語る方が、相手は喜び、ありがたがってくれます。
既にお分かりの通り、この語法の構造を構成するラング・スティル・エクリチュールは独立していながら密接に関係しています。
あるエクリチュールだからこそ選択されるラングがあったり、ある期待されているスティルにふさわしいエクリチュールが存在すると言えるでしょう。
さて、今回はバルトの『語法の構造』という切り口で「説明の内容とともに重要な語り方」についてお話ししました。
しかしもちろん「どのような語り方で説明すべきか」という問いに答える切り口は様々です。
他の切り口についても、機会があればまたお話ししたい思います。
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