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ファカルティズ・コラム

2011年07月22日

『言葉』から世界観を読む:時間編

今回は少し哲学的なお話。”世界観”というものについて考えてみます。
世界観とは文字通り『世界の見え方』であり、要するに私たちの「世の中ってこういうもの」という解釈のことです。
その世界観を『言葉』から考えていこうというのが本エントリー。
なぜ言葉から考えるのか?
それは私たちが言葉を使って思考し、コミュニケートしているからです。
だから先人達が作った『言葉』には、我々人間、いや日本人がどのように世界を見て、解釈しているかが投影されているはずです。


世界について考えるには「時間/空間」「物質/精神」「主観/客観」など様々な切り口があります。
ですから本エントリーは、様々な切り口でシリーズ化しようと思っている(確定はありません(笑))のですが、まずは数多の切り口から「時間/空間」を、そして最初に《時間》を取り上げたいと思います。

さて、時間に関係する言葉(まずは単語)には何があるでしょう。
まずはそのもの『時間』ですが、これは字面のままで取り上げてもあまり面白くなさそうです。
他の『今日』や『明日』、『年月』なども同様ですね。
これはいきなり企画倒れの危機か?(笑)


と思っていたらなんとか見つかりました。『未来』と『過去』です。
この『未来』と『過去』は対立概念、反対語でもあります。
そして『未来』とは「未だ来ぬ時間」、『過去』とは「過ぎ去りし時間」のことです。
ここから、私たちは「時間とは向こうからこちらに流れてくるもの」と解釈していることが見えてきます。
向こうとはもちろん先のこと。つまり時間は未来に顔を向けた我々の後ろ(過去)から未来に流れるのではないという世界観を私たちは持っているのです。
これは私たち全ての生きとし生けるものが、時という川の流れに抗いながら先に進んでいこうとすることを意味します。
しかし、これはあなたの時間に対するイメージに合致していますか?
たぶん違和感のある方もいらっしゃるでしょう。時の流れは過去から未来と考えることもできますから。
思うに、この世界観は「未来は既に決まっている」という運命論が支配的だった時代の名残ではないでしょうか。
しかし、だからこそ運命や宿命に抗うことが意味があると考えることもできます。
そう考えると、時間とは未来から過去に向かって流れる『動く歩道』のようなものかもしれません。
私たちは時間という動く歩道を未来に向かって歩いています。
しかし歩いていても実はひとつの地点から全く動いていない。その地点が『現在』です。
私たちの横には全ての人間が並んで歩いています。そして歩みを止めた者から動く歩道によって自動的に後ろへ送られ、過去の人となる。そう、歩みを止めることこそ『死』を意味します。
自ら歩みを止める者もいれば、誰かに邪魔されて意志に関係なく歩みを止めざるを得ない人もいます。
とはいえ自ら歩みを止めるのは自殺だけを意味しません。「死に急ぐ」人がそうなのです。
そして動く歩道を他人より速いスピードで歩こうと、いや走ろうとする人もいます。
でも、どんなに走ろうが時間は全ての人に公平です。だから『現在』でみんな横並びであり、走ってみても疲れるだけ。下手をすると疲れ果てて歩みを止めざるを得ないかもしれません。
こういう人を我々は「生き急いでいる」と言うのでしょう。


さて、今私は時間を『動く歩道』というメタファーで考えてみました、
しかし未来を「これから来る」もの、過去を「過ぎ去った」ものととらえる時、それをあくまでも「そう感じられるだけ」と考えることもできるはずです。
そうすると、時間を『車窓に流れる景色』というメタファーで考えることもできます。
そこから私たちは何に気づくことができるのでしょう。
これは皆さん一人一人が考えてみてください。
言葉にこだわる、そしてこのブログでも何度か語ってきた「メタファーで考える」トレーニングとして。


私自身は、「過ぎ去った景色を惜しむより、これから目の前に広がる景色に目をこらす」こと、また「どの列車に乗るのかをじっくり考えること」が大切だなあ、と思いました。

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