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ファカルティズ・コラム

2013年05月31日

組織リーダーの鏡としての『立花宗茂』

『立花宗茂』(たちばな むねしげ)
この戦国武将をご存じでしょうか。
ゲーム”戦国BASARA”のファンであれば、「ああ、あのチェーンソー(!)で戦う、人の良いゴツいオジサンね」となるかもしれません(笑)が、戦国武将としてはマイナーな部類に入るでしょう。
しかしこの宗茂、スゴい人なのです。
元々は、九州は豊後国(現在の大分県)、大友氏の家臣でしたが、その働きで豊臣秀吉に気に入られ、柳川藩の主として大名にまで駆け上がります。
関ヶ原の合戦には間に合わなかったものの、西軍の主力であったことで改易となり、城を明け渡し浪々の身となります。しかしその後、奇跡的に柳川藩の城主として返り咲きます。
その後も将軍秀忠の相談役を務めるなど、徳川幕府を支えた人物なのです。
西軍の武将でありながら、ここまでの復権を遂げたのは彼一人。
たとえて言うなら、スターウォーズのダース・ベイダーが、連邦軍の参謀として活躍するようなもの。裏切りと知略が支配した戦国時代においては、まさにマンガのような”ありえない”経歴を持つのが宗茂です。
しかし、この宗茂はなぜ、そのようなあり得ない復権を遂げたのか。
本日はそれを考えることで、現代の組織リーダーのあり方を考えてみようと思います。



さて、彼の復権を考える切り口として、以前このブログでもご紹介した、儒教思想の根幹をなす『五常』という徳のフレームワークを使ってみましょう。
 ※参考:“五常”を胸に


<仁:Love>
自分以外の全てに対する思いやり、慈愛の精神。
西軍に与した宗茂は、開城を迫る東軍の大軍勢に柳川城を包囲されます。
彼は家臣の身の安全を条件に開城を決意しますが、なんと民百姓が城を出た宗茂を迎え、殿のためなら命を捨てると開城を思いとどまるように訴えます。
しかし宗茂は、「気持ちはうれしいが、みなを戦乱にまきこみたくないがために城を出るのだ。わかってくれ」とそれに答えたといいます。
ここまでできる武将はなかなかいません。まさに<仁>に溢れる人物です。


<智:Knowledge/Wisdom>
仁を持つために必要な知識や知恵と、それらを学ぼうとする姿勢。
家康配下の最強の武将、本多忠勝とともに、『東の忠勝、西の宗茂』と並び称されるほど勇猛な武将として知られる彼ですが、大友家の軍師であった父(義父)の立花宗茂の下、軍略にも優れていました。
また、既に一流であったにも関わらず、弟子として何人もの大家に教えを請うて弓の道を究め、さらに茶道にも通じていたといいます。
常に学ぶ姿勢を持った<智>将でもあったのです。


<礼:Respect>
上下どちらに対しても、たとえ敵であっても礼を忘れない心。
関ヶ原の合戦の後、敗走して九州に戻った宗茂は、同じく敗走途中の島津軍の軍勢と出会います。
島津軍とは、大友氏配下の時代から、九州の覇権を懸けて血みどろの戦いを繰り返した間柄。その中で彼の実父も討ち死にを遂げています。
1000名の兵が80名まで減って、文字通りボロボロの島津軍を前にして、部下は「今こそ仇討ちを」と具申しますが、宗茂は「窮地に陥っている者の足をすくうなど武士のすることではない。ましてや同じ西軍に与した同志ではないか」とたしなめ、島津に使者を送って、助け合いながら故郷に戻ろうと呼びかけたそうです。
何という<礼>の精神でしょうか。


<信:Honesty/Nexus>
相手に対する誠実さと、そこから信頼関係を構築し、絆を結ぶこと。
先の島津に対する礼に基づいた計らいも、まさに彼の誠実さの現れ。島津義弘もそれに応え、東軍が柳川を取り囲んだ時には、なんと1万もの兵を宗茂の援軍として送ります。
残念ながら島津軍が到着したのは柳川開城の3日後だったのですが、代々の敵とすら絆を結んでしまうのは、彼の<信>あればこそでしょう。


<義:Cause/Justice>
仁・礼・信の内なる声に耳を傾け、世のため人のために為すべき事を為していくこと。
城主というリーダーは、何のために存在するのか。
それは国のため、そして配下も含む領民のためであることがわかっていたからこそ、名誉を捨てて開城した宗茂。
宿敵であったはずの島津との絆も、やはり義の精神からでしょう。
また、ある城を責めた折、城主の助命を秀吉に嘆願することを条件に無血開城に成功したのですが、秀吉は宗茂を褒めながらも、助命はまかりならんと言います。しかし宗茂は諦めず、「それであれば、まず私を殺してくれ」と食い下がり、ついに助命を認めさせます。
自分より他人のことを考える。常に<義>の心を忘れない、彼こそ真の”サムライ”と言えるでしょう。


いかがでしょうか。
こうして見ていくと、いかに彼が『徳』に溢れた武将だったかがよくわかります。
そしてその徳こそが、彼が敗軍の将から復権を遂げた理由であることも。
さらにそれは、戦国武将だけの話ではなく、現代のリーダーにも必要な”人間力”であることも。


さて、最後にもうひとつ彼のエピソードをご紹介しましょう。
豊臣の天下の時代、諸大名が集まった席で、秀吉は彼、立花宗茂と本多忠勝を東西の雄として紹介し、引き合わせます。
その後、秀吉が宗茂を気に入っていることを知る忠勝が、「あなたのおかげで私も面目が立った」と礼に訪れます。
そこで宗茂は、「私こそ、あなたのような武勇の誉れ高い方と並び称される名誉をいただいた。ぜひ部下も含め、色々と教えていただきたい」と返し、語り明かしたといいます。
その20年後。
元西軍の将として、不遇の時代を過ごしていた宗茂を取り立てるよう、家康に強く進言した人物。
・・・それが本多忠勝でした。

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