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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2016年06月23日

「報道」と「エンターテインメント」との境界線

本日は、元々は軽い話題で書くつもりでした。
しかし、東洋経済オンラインで連載されている『「貧困報道」は問題だらけだ』を読んで、考えが変わりました。
本日は、今さらながら「報道」について考えてみたいと思います。
 
実のところ、私自身、最近の報道には首を傾げるものが多いと感じています。
たとえばそれは既に辞任を表明した元都知事に対する「落ちた犬を叩く」ような報道であり、また歌舞伎役者の妻の闘病を、なかばワイドショーのような内容に立ち入った報道です。
特に、「なぜこれを放送する意味が?」と憤りさえ感じる「テレビのニュース番組」が多いと思うのです。
そこで考えました。
「そもそも報道とは何か? 報道にエンターテインメント性は必要なのか? 報道とエンターテインメントには境界線があるのか?」
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まず、「報道とはエンターテインメントではない」という前提に立つことにしました。
なぜならば、「受け手が笑ったり泣いたりしてくれればいい」では、報道の送り手としてあまりにも志が低く、また、そんな組織やジャーナリストはいないはずだと思ったからです。
その上で、「エンターテインメント」と「報道」を定義してみましょう。


ヒトコトで言えば、「エンターテインメント」とは消費財の一種と定義できます。
「笑う」や「泣く」「癒される」などの娯楽(楽しませるもの)を提供し、その場で消える。この「楽しませること」そのものが目的なのがエンターテインメント。
だから、受け手(視聴者/読者)の「楽しみたい」というニーズに合致していれば、それが事実であれ創作であれ成立します。
ドキュメンタリーを掲げた番組で、しばしば見かける「やらせ」は、エンターテインメントとしては「アリ」なわけですね。
内容に一喜一憂し、「ああ楽しかった」と、その場で終わり。
これがエンターテインメントです。


では、それに対して「報道」とは何でしょう?
「エンターテインメント」とは、どこが違うのでしょう?
私は、「上位目的の有無」が、その違いだと考えます。
上位目的とは、その情報(ニュース)を、受け手に伝えることに、どのような意味があるか。
つまり送り手としての「目的」です。
報道の送り手には、「伝えたい」「これを見て/読んで考えてほしい」何かがあるはずです。
しかしここまでなら、エンターテインメントでも守備範囲。
「報道」であれば、そこで終わるのでなく、その先に「受け手が取ってほしい行動」がKPIとしてあり、さらにその先に、「受け手のその行動によって社会をこう変えたい」というKGIがあるはずです。
もっと単純に言えば、「受け手がほしい情報を伝えたら終わり」なのがエンターテインメントであり、「送り手が伝えたい情報を伝えることで、送り手の目的を達成する」のが報道なのです。


さて、ちょっと小難しく両者の違いを考えてきました。
それを基にして現実を見てみましょう。
現在の「報道」は、消費財レベルのものが多すぎると思いませんか?
既に辞任を表明した都知事の退職金について伝えて、それで受け手の行動と社会が変わりますか?
著名人の妻の病気の深刻さについて、医者のコメントを伝えることで、がんの予防がどれだけ進みますか?
イギリスのBBCには、「個人的な行動、情報、対応や会話は、プライバシーの侵害に勝るほどの公共の利益がなければ公の場にさらされるべきではない」というガイドラインがあります。
これは別にBBCに限ったことではなく、全ての報道機関がガイドラインとすべきでしょう
なんでもかんでも、「ニーズがあるから」を錦の御旗にして、いや、受け手のせいにして、とても「報道」とは呼べないものが溢れていると思いませんか?


「報道は中立であれ」とよく言われます。「事実だけを伝えろ」という受け手からの注文もあります。
しかし、私は「中立に事実だけを伝えるだけ」では、報道機関として失格だと考えます。
社会をより良くする。その共通目的の下に、方向性や手段は異なっても、自分たちが本当に伝えたい情報を伝え、そして受け手を導く。言い方は悪いですが、「世論を誘導する」。
これが報道機関の役割です。
1960年代の「公害報道」などは、まさにこの「報道」が社会に貢献した例であり、結果的に社会を悪い方向に導いたのが、戦時中の「大政翼賛報道」なのです。
ですから、私はマスメディアで報道に携わる人々、広くはジャーナリストを自称する人々、つまり報道の「送り手」に、以下のことを望みます。

まず細かいところから言えば、そもそも、エンターテインメントを目的とした週刊誌の記事を「報道」の名の下に取り上げるのはやめましょう。とても恥ずかしい行為です。
そして「消費されて終わり」のエンターテインメントを、「報道」と呼ばないでください。
少なくとも、自分たちが作っているのが報道かエンターテインメントかは考えましょう。
だから「報道」を名乗るのであれば、「伝えて終わり」ではなく、その後の受け手の行動というKPI、そしてそれによる社会の変化というKGIをきちんと設定しましょう。
できれば、それがどれだけ実現できているかをモニターしてください。
報道にエンターテインメント性を持ち込むことまでは否定しません。まず興味を持ってもらわないと、見て(読んで)すらもらえない、という意見は理解できるからです。
しかし、あくまでもエンターテインメント性は「お化粧」であり、本質は報道であることを忘れないでください。
だから「社会を変えるために○○しましょう」というメッセージは、直接言うかどうかは別として、受け手にちゃんと理解してもらうための「わかりやすいつくり」を心がけてください。



しかし今回のエントリーは、何も送り手だけに向けたものではありません。
私たち報道の「受け手」も、以下のことをしっかり認識すべきです。

そもそも、「中立的報道」などないことを認識しましょう。
事実だけを述べていても、たとえば街頭インタビューで都合の良い意見だけを番組で流すのは「テクニック」です。扇情的な画面やBGMもそう。
「ドキュメンタリー=報道」ではないのです。
だから自分が観て/読んでいるものが、報道なのか、それともエンターテインメントなのか、それを見極めましょう。
そして「報道の顔をしたエンターテインメント」には、Noを突きつけましょう。少なくとも、鼻で笑って踊らされないようにしましょう。
シンプルに言えば、「もっと情報リテラシーを高めましょう」

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