KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2016年12月20日

「批判」と「中傷」の境界線

前回のエントリーで話題にしたDeNAの『ウェルク(WELQ)』問題。
その後の展開はご存じの方も多いでしょう。
ネットでの炎上は瞬く間に広がり、DeNAは当初「管理が別」としていたファッション系キュレーションサイト『MERY』も含め、すべてのキュレーションサービスを停止。会長・社長が謝罪会見を開くまでの事態となりました。
さて、本日はそれに関する続報や私の考えを述べたいわけではありません。
私もある意味今回の「炎上」には荷担しているわけですが、今回の件だけでなく、こうした「炎上」について考えてみたいのです。
fire.jpg
今回の件、ネットでの意見には「DeNAなど潰れてしまえ」や「本当の責任者を吊し上げろ」といった論調もあります。
しかしそうした意見は、もはや建設的な「批判」ではなく、叩くことを目的とした「中傷」に近いのではないかと思うのです。
では、「批判」と「中傷」を分けるものは何か。
それを考えてみましょう。






「中傷」ではなく「批判」するために気をつけるべきこと。
よく言われるのは、「感情のおもむくままに行わない」ということでしょう。
カチンと来たから、義憤を感じたからといって、SNSなどで本人に噛みつくのは、「単に憂さ晴らしをしたいだけ」であることを肝に銘じるべきです。
感情的になったら、まず深呼吸。
「本当に送信ボタンを押すべきか?」と自問自答しましょう。
そしてそれに加え、私が批判において意識していることが2つあります。

1.「個」でなく「群」を批判する

ある「個人」、あるいは企業などの「特定の組織」を批判するのでなく、できるだけ「群」で批判するようにしています。
「デマをまき散らす(個人名)はけしからん」でなく、「~というデマをまき散らすような人はけしからん」と表現する。
今回の件でいえば、「DeNAはけしからん」でなく、「多くのキュレーションサイトには問題がある」にする。
これは別に対象を曖昧にした「ぬるい批判」で、当たり障りのないことを言おう、という意図ではありません。
同様に批判すべき対象は他にも必ずあり、個人攻撃や特定企業を叩いても、問題は解決しないからです。
しかしだからと言って、個人名や企業名を出さないわけではありません。それらは「事例」として使えば良いのです。
「できるだけ一般化する」と言っても良いでしょう。



2.「全体」でなく「活動」を批判する

そしてもうひとつが、たとえ事例として個人名や企業名を挙げたとしても、その存在自体を否定しない、ということです。
たとえばDeNAにしても、これまで素晴らしい実績を残してきました。
ネットベンチャーのひとつのお手本であり、ベイスターズを復活もさせました。そしてたくさんの優秀な人材がいますから、これからも大いに期待すべきです。
それを今回の一件で「DeNAはダメ」とか「潰れてしまえ」などと叩くのは、思慮がなさ過ぎます。
「DeNAのガバナンスに問題があった」といったように、その(仕組みを作るプロセスも含めた)「活動」を批判すべきです。
対象が組織でなく人の場合も同じ。
個人名を事例として挙げたとしても、「(個人名)はダメ」でなく、先の「個でなく群」も加味して「(個人名)のような○○を叫ぶ人々の、□□という考え方には××という問題がある」のように表現できるはずです。
こうした批判であれば、それは個人攻撃や企業の全否定でなく、「改善ポイントを提示した建設的批判」になります。
そう、「批判」とは私はすべからく「建設的批判」であるべきと思うのです。

メルマガ
登録

メルマガ
登録