今月の1冊
2024年08月13日
篠田 桃紅 著『これでおしまい』
日本とトルコの関係は、時代によって波があるものの、1890年のエルトゥールル号事件や1985年のトルコ航空特別機によるテヘランからの邦人救出、両国で起きた震災からの復興支援といった、国をこえた相互支援を積み重ねた歴史が思い起こされます。
そのトルコ(テュルキエ)共和国と日本は、2024年に外交関係樹立100周年を迎えました。長い時間をかけて育まれた貴重な友好関係をともに祝い、交流を一層促進するための記念事業が両国で行われています。
日本ではトルコにちなんだ絵画展の開催や、特殊切手「日・トルコ外交関係樹立100周年」が発行されています。
トルコでも交流イベントが開催されており、その一つに首都アンカラと古都ブルサを訪れ、日本の伝統芸能を披露し、体験いただくことを通じて市民レベルでの交流、相互理解を深める催しがありました。
しかし、その催しにまさか私が参加させていただけるとは露ほども思っておらず、伝統音楽「地唄箏曲(じうたそうきょく)」の演者の一人としての参加をお誘いいただいた際、大いにうろたえたのでした。
常々、海外の方と音楽を通じた交流、友好関係づくりの促進をしたいと思っていたにも関わらず、思いがけないチャンスに「いや仕事が…家庭が…体調が…飛行機怖い…」と何やかや躊躇する私。そんな背中を押してくれたのが、美術家 篠田桃紅(しのだとうこう)さんの本『これでおしまい』です。
『これでおしまい』は桃紅さんが107歳で亡くなられた年に出版されました。
桃紅さんは大正から令和という社会規範や価値観、インフラや生活などが大きく変化していった時代を生きた女性です。本では彼女の生い立ち、書家として独り立ちしたこと、戦後まもなく墨を用いた抽象表現という新たな芸術を切り拓いて世界的な評価を得たこと、老境で思うことが紹介されています。そして、そのときどきの彼女の思いが、強い信念と覚悟に裏打ちされた警句のような、公案(禅問答)のような、短歌のような形で、添えられています。
篠田桃紅さんは大正2年(1913年)に生まれ、令和3年(2021年)に107歳で亡くなるまで美術家、版画家、エッセイストとして活躍しました。
旧満州国大連で三男四女の第五子として生まれ、生まれた地から満洲子(ますこ)と名付けられました。桃紅(とうこう)というのは漢学、篆刻、書などの教養を学んだ父・頼治郎さんから授かった雅号です。旧満州国では建築家ジョサイア・コンドルが設計した元ロシア帝国の家に住み、ロシア風の西洋的でハイカラな生活をしていたそうです。幼少期に東京へ引っ越し、伝統的な日本の暮らしになったものの、電化製品をいち早く取り入れるようなハイカラな家庭でした。
一方で、その時代らしいといえばそうなのでしょうが、江戸時代の儒教の教えで育った父はハイカラな反面、封建的な価値観も持ちあわせており、桃紅さんはその価値観のはざまで悩むことも多かったようです。なんと「男女七歳にして席を同じうせず」を厳しく言い渡され、女学校時代の修学旅行にも「女の子が外に泊まるのはいけない」と行かせてもらえなかったそうです。
女学校を出たら結婚してお相手の家に入ることがあたりまえで疑問すら感じないという時代、桃紅さんはそこに疑問を感じ、「自分の考えで自由に行きたい」と二十三歳にして習字の講師として独立して生きることを選びます。この「自由」について、桃紅さんは次のように話しています。
「自由というのは、気ままにやりたい放題にすることではなく、自分というものを立てて、自分の責任で自分を生かしていくこと。」
「これは、いいとか悪いとかの判断じゃないんです。(中略)やっぱり何かに所属すると、我慢をして、その会に従っていかなければならない。家庭だってそう。だから所属することとか何もしないし、結婚だってしない。なるべく自分で、一人やっていかれれば、それが私の性にあっている。それだけですよ。それでなくとも、この世は制約だらけ。そのなかで心の自由っていうものを私は持っていたい。自分がつくるものだけは、誰にもなんの遠慮もなく、勝手につくりたいと思っています」
しかし、日本は戦争へと突入し、東京大空襲を受けて、桃紅さんとご両親、妹さんは会津の山奥に疎開しました。そこでの厳しい生活で無理がたたったのか肺結核にかかり、2年間の療養生活を送ることになります。当時はまだ肺結核の効果的な治療薬ができておらず、彼女は同じ病で長姉や次兄を早くに失っていました。幸いなことに、優秀な医師との出会い、清涼な空気と水などいくつかの運に恵まれ、病から復調できた桃紅さんは、戦後東京に戻り、老いた父母との別れを経て、書から独自の創作へと活動を広げてゆきました。
やがて個展をきっかけに海外にも作品が知られるようになり、海外、国内の美術館への出展依頼が相次ぐようになります。
当時、海外に行くことができたのは、外務省などごく限られた立場の人間であり、アーティストが一人で渡米することはよほどの助けがないと不可能でした。ところがそのチャンスがアメリカからやってきて、そしてその少ないチャンスを桃紅さんはしっかりと掴みます。その時の「チャンスがきたことに気づき」、それを「掴むための心境」は響くものがあります。
- チャンスは作ろうと思っても作れない。
降ってきた時に受け止めることができるかどうかが大切。 - こうしたいという望み、やりたいことを心の一隅に何となくでも持っておく。
それによって受け止められる状態がつくられる。 - 自分のいきるかたちに自らがとらわれてしまわないこと。
チャンスが来た時にそれにかけてみようという気になれるためにも。 - 自分の人生を年齢や世間の常識などで規制しない。
しびれます。
歳を重ねるほどに体力が落ちてきて、出来なくなることが増えた身で、これからの時間をどのように使おうかと考えることがあります。それから、自分がやり残している望みは何だったか、それは今からできるのか、そのチャンスは得られるのか…といったことも。それなりに生きて、あちらこちらの壁にぶつかり続けて、色々なものが自身から削れ落ちたせいか、それでも強固に残っている望みはより一層くっきり見えて、なんとなく日頃心の片隅にあるものです。
一生こない可能性だってあるチャンスがもし降ってきて、それに気づけたなら、自分の状況が準備万端ではなくても、その望みをかなえるチャンスを掴むほうにかけてみよう!
桃紅さんの言葉と生き方に鼓舞された私は、冒頭のトルコ行きのお誘いを有り難くお受けし、楽団の一人としてトルコを巡らせていただいたのでした。
道中、空港の手荷物検査でとめられても何とかする度胸がつき(お三味線という見慣れぬ楽器を持っていると度々とめられます)、言語も仕事の仕方も異なる方々との協働で必要な思い切りよい行動と度胸(また度胸…)、各楽曲がもつ世界観やテーマを言語をこえて表現して伝える姿勢や技術など、新たに学ばせていただくことが盛りだくさん。成長を実感できただけではなく、次なる望みが見えてきました。それは自分を突き動かす原動力にもなっていて、「あぁチャンスを受け取ることを選択してよかった」と感じています。
さて、この本は桃紅さんの甘えのない鋭い言葉がたくさん紹介されています。
適当にぱっと開いたページの文字に思わず動揺することも。
例えば「自由は人生を生きる鍵」篇では厳しい一面、自分を縛っていた思い込みや期待から、自身を解き放ってくれるような言葉があります。
人間の生き方として「独立自尊」を真っ先に提唱したのは福沢諭吉でしたね。いろんな学問をして、さまざまな意見を聞いて、最後は一人で立ち、自らを尊ぶ。
外界というものは一切自分の思うようにはならないから、それはそれと思い捨てなきゃだめよ。で、自分は自分でやっていくよりしようがない。まわりが合わせてなんて、絶対くれないんだから。
自分はこうやりたいと思ったからやっちゃう、というやり方で生きたほうがいい。だから客観的に自分を動かさないで、主観的に自分を動かす。
「あきらめて救われる」篇は悩める皆様におすすめです。
これだけ一生懸命やっているのに、どうして理解してくれないんだろうってみんな思っている。
お釈迦様ですら、いくら教えを説いても理解してくれない人たちがいると諦めているのですから、思い悩む必要はないですよ。
あきらめられないから悩みが尽きないし、あきらめられないから希望も続く。人生はその繰り返し。
そして「老いを受けとめる」篇はミドル・シニアの皆様にぜひ。
そりゃあ生き物ですから、衰えていく面だけではなく、深まっていく面もある。老いて初めて気のつくもの、老いたからかえって別の面が見えてくる。一身のなかで、成熟していく精神、思考力と、衰えていく記憶、体力の両方を抱いて生きるのが老いるということなのね。
私、いくつになっても色んなことを発見しているんですよ。だから飽きないでやっているのよ。
いかがでしょうか。
ひとつでも心がザワ…とした言葉があったなら、107歳の世界的美術家が遺した人生のことばが綴られた、『これでおしまい』を手に取ってみることをおすすめいたします。
(柳)
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