ピックアップレポート
2024年11月12日
千 宗屋『いつも感じのいい人のたった6つの習慣』
まず正直に告白するなら、茶の家に生まれ育ち幼少の頃からさぞ厳しい作法やマナーを叩き込まれたと思われがちな私ですが、存外そうでもなく両親や祖父母はのびのびと自由に育ててくれました。外で人様にそういったことを教示することを生業としているせいか、身内にはその反動があったのかもしれません。ただ祖父は比較的厳格な人で幼心に少し怖かった記憶があります。
6歳の6月6日からお茶の稽古初めを行われるところもあるようですが、そういったことも特になく、ただ記憶にあるのは、ある日奥の仏間へと父に手を引かれて行くと、祖父が怖い顔をして硯と墨を横に待っていました。私の手に太い筆を持たせて大きなその手を添え、たっぷり墨を筆に含ませた後、横幅のある紙に一気呵成に「一」の大字を書かせたことがありました。
「一、万物の始まる所なり」。思えばそれが手習い初め、私にとってのお稽古初めでした。しかしその後定期的に書やお茶の稽古をしたわけではありません。ただ自宅は茶室や事務所のある家元の施設と棟続きで扉一枚隔てた向こう側、常に人の出入りがあり公とプライベートの仕切りはかなり曖昧な住環境でした。稽古の強要はなくとも、お稽古日の後には水屋で余ったお菓子を頂きながら薄茶一服を頂くことは日常でしたし、夕食時の会話にはその日の稽古や茶会で起こった出来事や人様の話を聞くともなしに聞いておりました(さらに内弟子さんとは夕食の座を共にすることも多かったです。)ですから、やはり特殊な環境で育っていたことは間違いないわけで、それらが今に至る私という人格形成に計り知れない影響を及ぼしたと思われます。
そんな私が今回小学館さんよりマナーや良識を説く本を出版してほしいとのご依頼を受け、最初は大変躊躇いたしました。茶の湯に関わることならともかく、ビジネスマナーや冠婚葬祭を含めた、日常における良識全般に対し大上段から物をいうような本を出すなど烏滸がましいにも程があると思ったからです。さらにただでさえ茶の湯、就中茶道は一般的には作法にうるさく、面倒くさい、正座が大変など、昨今のライフスタイルからの乖離により敬遠されがちです。そこに今回のような本を出して茶道=作法という私が最も避けたいイメージの流布をますます助長してしまうのではないかと、危惧したのです。
しかし昨今のモラルハザードは時に目を覆うようなことがあり、多様性という名のもとに一つの価値観や様式を当て嵌めて行動を促すような作法やマナーは時代遅れと捉えられる向きもあります。さらに何かにつけ「我よし」「私が!」と自我が声高に感じることが多々あります。それと相反するように現在書店や書籍の通販サイトを覗くと、「一流に見られたい」「上品な人に思われたいマナー」といった文言とともにマナーや作法、常識の取得を売りにした本が氾濫し、ベストセラーを競っています。しかしこれらの惹句を見ると、いずれも自分がどうあるべきか、ではなく他人からどう見られたいか、という方に関心がシフトしているようで、ここにもまた自分ファーストな考えが幅を利かせていることを窺わせ、いささか困惑してしまいます。
翻りますと、被災地での譲り合いの様子を持ち出すまでもなく、日本人にとって「我よし」を声高に主張するのではなく、お互いを尊重し譲り合う謙遜の精神は生来備わっている美徳とされていました。私が修行をした比叡山を開かれた伝教大師最澄上人は、仏教で何より大事な慈悲の教えの究極は「己を忘れて他を利する」ことにあると説かれました。そういった日本人の高い精神性や良識・美学のエッセンスが集約されている茶の湯においては、亭主が客である自分のために点ててくれたお茶であっても、必ず両側に座る連客に対し「お相伴します」「お先にいただきます」と挨拶を交わしてから頂くという、譲り合いの精神が当たり前のように日々作法として行われています。また千利休はじめ歴代の茶人・宗匠方による、茶席での主客の応酬の機転など、珠玉のような逸話の数々も茶の湯の世界には存在しています。さらに私自身は、年齢の割にかなり歳の離れた人生の大先輩方と近しく交わるご縁を幼少の頃より重ねておりました。上は100歳近い古老の方からその分厚い人生経験を集約したようなお話を直接お聞きしたり、実際の行動で身をもって示してくださったものを身近に拝見したことが一再ならずあります。それらのエッセンスをこの機会にわかりやすく翻案し、見た目や形ではないマナーや作法の本来あるべき姿やその奥にある本質のようなものを、広く茶の世界の外へお届けすることもまた、私の一つの役割ではないだろうかと思い至り、このたび『いつも感じのいい人のたった6つの習慣』の上梓に至りました。
いっとき「おもてなし」ということばが流行りました。そして茶の湯はもてなしの文化としてもてはやされることがあります。しかし「もてなし」とは、客を迎え心地よく過ごしてもらうために至れり尽くせりの一方的なサービスすることではありません。本来は「似って為す」、縁あって出会った人と人がお互いを敬い合いリスペクトする関係性があって初めて成り立つものなのです。茶の湯では亭主はもちろん、一見もてなしを受けるのみと思われる客であっても、それを受けるに足る資格があるか試されるような場面がいくつもあります。そのために客もまた日頃から稽古や日々の学びによって知識や経験を重ねていかなくては、本当の意味でのもてなしは成り立ちません。いくら亭主が客のためにとっておきの名物茶道具を用いて茶事を催しても、受ける側にその道具の重要性、貴重さへの理解がなければ、それは亭主の独り相撲となってしまいます。さらに迎えられた客は、亭主の心遣いを受け止める意味で道具を丁重に扱うなど相応しい振る舞いをすることで、その一期一会は成立するのです。想いを込めて出した道具を客が理解し、きちんと扱い敬意を似って振る舞えば、その瞬間は亭主が客にもてなされているといえるでしょう。それこそが茶会における主客の理想的なあり方「賓主互換」の境地です。そういったことを、知識をひけらかすわけでもなく、さらに押し付けがましく行うでもなく、相手を気遣って心の余裕をもってサラッと行える人のことを、茶の世界では「お茶のある人」といいます。私は茶の湯の美徳を表したこの「お茶のある」ということばが大好きです。私にとって「感じのいい人」とは何より「お茶のある人」でもあるのです。
『いつも感じのいい人のたった6つの習慣』(小学館2024年10月)のあとがきを著者と出版社の許可を得て抜粋・掲載しました。無断転載を禁じます。
千 宗屋(せん・そうおく)
茶人、武者小路千家家元後嗣
茶人。千利休に始まる三千家のひとつ、武者小路千家家元後嗣。1975 年、京都市生まれ。慶應義塾大学大学院前期博士課程修了。2003 年、武者小路千家 15 代次期家元として後嗣号「宗屋」を襲名し、同年大徳寺にて得度。2008 年、文化庁文化交流使としてニューヨーク滞在。2013 年、京都府文化賞奨励賞受賞、2014 年から京都国際観光大使。2015 年、京都市芸術新人賞受賞。日本文化への深い知識と類い希な感性が国内外で評価される、茶の湯界の若手リーダー。古美術から現代アートまで造詣が深い。著書多数。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授、明治学院大学非常勤講師(日本美術史)。一児の父。
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