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ピックアップレポート

2025年02月12日

阿刀田 高「夢 について考える」

阿刀田 高
小説家

この1月で私は90になりました。こんなに長生きするとは思っていなかったのですがなぜか長生きしてしまいました。もう一回生きると言えば大袈裟ですが、つれづれなるままに生きてきた道を心に呼び戻し、思い出しながら過ごしています。

私は文章家として、言葉に特別な関心を持っています。
「夢」という言葉はおもしろい言葉です。

「若い人は夢を持ちなさい」「人生、夢ほど大切なものはない」と言ったとき、この「夢」は人生の希望であり、一番大切といえるほど重要なものを意味します。一方で「夢みたいなバカなことを言ってるんじゃないよ。」と言ったとき、この「夢」は実現などとうていできない、どうしようもないものを指しています。たったひとつの言葉がポジティブとネガティブと、両方の意味を持っている。おもしろい言葉です。

将来の夢を夢と呼び、昨夜見た夢も夢と呼ぶ。未来、将来と過去の両方をさすこともある、おもしろい言葉です。寝ている間に見る夢には昔のことや懐かしい人ばかりが出てくるのです。私など起きていても昔のことばかり思い出して過ごしていますから、それもあってこの言葉に関心を持っているのかもしれません。

私は双子のかたわらでした。先に生まれたので私が兄で、弟は体が弱く幼くして死んでしまいました。考えると私は母の体内で栄養を余計にかすめ取っていたに違いない。ブラックユーモアでいろんな殺人を書いてきましたが、生まれながらに私は殺人者であったのかなと思ったりしています。

母は体の弱い弟の面倒を見ていましたので、私はもっぱら女中の姉やに預けられて育ちました。その姉やには、どういうわけか廊下の角を柱ぎりぎりのところで曲がるクセがありました。廊下の角には箱電話が据えられていて、そこを曲がるたびに、背負われていた私は電話機に頭をがーん、がーんとぶつけられていました。そのせいでお前は頭がおかしくなったんじゃないか、と子どものころからからわれたものです。小説家になったのはそのせいかどうか。わかりませんね。

家のすぐ近くに「電気館」というモダンな名前の映画館がありました。観たのはもっぱらチャンバラ映画でした。
塚原卜伝、宮本武蔵、皆まず若いころから懸命に稽古を積む。ある程度の年齢になると師匠に呼ばれ、師匠が「お前もよくやった」と言って、巻物のようなものを渡す。それにはよほど良いことが書いてあるらしく、それを読んでますます上達し、みな素晴らしい剣豪になっていく。

近藤勇は若いころトラブルに巻き込まれ、決闘をすることになる。相手は非常に強い。この決闘で死ぬのは一向に構わないが、武士としてそれなりに立派に死にたい、どうしたらよいかと師匠に相談する。すると師匠は、じっと目をつぶって全神経を集中し、相手が討ってくるのを待て、と返す。相手が討ってくる瞬間、刀を振り下ろせばお前も切られるだろうが相手も必ず切られる、それでいいんだと言う。近藤勇はその通りにする。すると相手が「参った」と降参する。「お前には全く隙がない、打ち込めない」と言う。そしてその時にも師匠は秘伝を渡す。近藤勇はますます剣豪に育っていく。

いいストーリーだなあと感心するとともに、やはりああいう素晴らしいことを書いた秘伝があって、それを手に入れるとよいことがあるのだな、そういうのがあるならば俺もいつか手に入れたいな、と思ったことをよく覚えています。

8歳上の兄が読んでいた『少年クラブ』という雑誌に、植物の種をとってきて庭の隅に植えろとありました。種が芽を出したらそれを飛び越える、次の日もまた飛び越える、どんどん伸びる植物を毎日飛び越えていると、やがて1mも2mも(2mまで書いてあったかは定かではありませんが)飛び超えられるようになる、とある。
子ども心にも「これはあやしいな」と思いつつも秘伝を知ったような気がしました。兄が実際それをやったかどうか。いずれにしても、それなりの努力をしていると書きつけをもらい、それによって素晴らしい叡智が漲ってくる、そういうことが世の中にはある、いつかそんな書きつけにめぐり合いたいなあ、とこのときにも思いました。

それから3、40年たってからのことですが、エジプトに参りました。
エジプトといえばピラミッド。現地のガイドが一生懸命つたない日本語でピラミッドについて説明してくれました。
ピラミッドを作るには直角が重要である。直角をどう測るか。紐を3、4、5の比率で三角形を作る。すると3と4の間に直角ができる。のちにピタゴラスの定理に育っていく知恵ですが、それを古代の技術者が入手し、大切にし、広大な砂漠でピラミッドを作るのにも役立てたのでした。これはすごい叡智であるとピラミッドを眺め感動したことを覚えています。

そんな感動からしばらく過ごしておりますと、ふと、21世紀の私たちのまわりにもそういう素晴らしい秘伝があるではないかと気づきました。憲法9条の条文です。
国権の発動たる戦争と、武力の行使を永遠に放棄する。
要約すれば2行で書けることです。たった2行、しかしこの2行が実現するならば、いま起きているウクライナの戦争も、ガザの悲劇も、ミャンマーの内戦もみんな本当は解決するはずです。
2行でいい。2行でピラミッドは建てられました。たしかにピラミッドもすごいが、日本国憲法のこの2行で救われるものは半端ではありません。そして、この2行を信じなければ救われないところまで、われわれは来ているのではないか、と考えてしまうのです。

これは夢といえば夢です。そんなバカなことできるわけないだろう、世界の様子を見たら武力を持たないなどどうしたら可能なのだ、と言われればその通りだと思います。しかし、この夢が実現しなければ、もう世界はダメなところまできているのではないだろうか、人類や地球はもたないのではないか、そう心配する状況に入ってきています。

この夢が、21世紀が終わるころにはよい意味になってくれないだろうか。
この夢が、ポジティブな意味に転がっていってくれないだろうか。
何しろ生まれてすぐに電話機でさんざん頭をぶつけたものですから、どうもちぐはぐなことばかり考えて90年を過ごして参りました。最後も、どこかちぐはぐだけれども、この夢がよい方に転がってくれることをひたすら願って、祈って、私は死んでいくだろうと思います。

※2024年11月26日「ペンの日」懇親会(日本ペンクラブ主催)での記念講演から阿刀田氏本人が抜粋・執筆しました。無断転載を禁じます。


阿刀田 高

阿刀田 高(あとうだ・たかし)
小説家

昭和10年(1935年)東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業後、11年間、国立国会図書館に勤務。その後軽妙なコラムニストとして活躍した後、短編小説を書き始め、昭和54年『来訪者』で日本推理作家協会賞、短編集『ナポレオン狂』で直木賞を、平成7年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。ユニークな短編の書き手として知られる。また、エッセイとして『知っていますか』シリーズ、小説『闇彦』、『知的創造の作法』、『私が作家になった理由』など多数。2003年紫綬褒章、2009年旭日中綬章受章、2018年文化功労者顕彰。日本ペンクラブ第15代会長、1995年から2013年まで直木賞選考委員、2012年から2018年3月まで山梨県立図書館館長を務めた。

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