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夕学レポート

2008年06月27日

中央集権国家への胎動 『海舟がみた幕末・明治』(第10回)

1968年(慶應4年)3月14日、勝と西郷の直接会談により、翌日の江戸総攻撃の中止は決まりましたが、これですべての事が収まったわけではありません。江戸城無血開城という新たな難事がはじまりました。両雄は休む間もなく動き始めます。
まず西郷は、翌日には京都に向けて出立。5日後の20日は、二条城で岩倉、三条、大久保、木戸らと緊急会議を行います。
「徳川公大逆といえども死一等は免じるべき...」と語気強く迫る西郷のとりなしに対して、穏便主義の木戸孝允が賛同します。寡黙な西郷に代わり弁舌を振るい、岩倉、大久保等の強行派も折れ、会議はまとまりました。
西郷は、すぐに長駆、江戸に舞い戻り、準備を整えます。
一方、勝は、21日に英国外交官アーネスト・サトウと面談。西郷との会談の様子を伝え、「武力衝突回避」を第一義とする勝の主張を明かします。親薩摩のサトウの口から、西軍に情報が伝わることを想定しての動きでした。
さらに、横浜に押し寄せていた海軍先鋒隊の総督大原茂実を単独訪問します。
血気盛んな大原を押しとどめ、暴発を抑制するための行動でした。西軍側にも多くの知己を持つ勝海舟ならではの交渉といえるでしょう。
横浜では、翌日に英国公使館にパークスを電撃訪問し、夕方まで粘って会談に成功します。
この席で、勝は誠心誠意、現今の外交問題を説明し、西軍に対する自らの考えを正直に、しかし強い決意をもってを話します。
「慶喜の助命」、「幕臣の生活にメドをつける」 この2点を保障してもらえれば、一切戦うつもりはないこと。
ただし、これに同意をもらえない時には、江戸を火の海にしてでも戦う決意を持っていること。
いずれにしろ、外国の手出しは無用であること。
パークスは、勝の人間性、明晰さに感服し、それまで薩摩寄りだった姿勢を一転、万が一西軍が慶喜の命を狙う場合があれば、ロンドンに亡命させるという密事まで約しました。
最低限の要求事項は明確にし、あらゆる手段を講じて相手にそれを伝えつつ、不測の事態に備えた万全の対策を打つ。勝の名声が後世に残る理由となる大仕事でした。
勝に惚れ込んだパークスは、すぐに西郷宛の手紙を駿府に送り、江戸から戻る途中の彼を呼んで、徳川に対して苛酷な処罰を取らないように要請します。
パークスの意外な態度に、勝の動きを察知した西郷は、その政治力に舌を巻いたそうです。


また、この会談で西郷は、徳川に対する穏便な処置を約束する代わりに、万国公法に照らして、英国の事態への不介入を求めます。
半藤さんは、ここで西郷が万国公法を口にしたことに注目します。
この頃すでに、万国法の遵守による諸外国との協調体制への意識が、新たな国づくりの基本思想の基底に流れていたわけです。
ちなみに、万国公法を最初にわが国で啓蒙したのは、長崎伝習所時代の勝海舟でした。彼が、いち早くその重要性に気づき、三百部を手配し、伝習所に人を派遣していた各藩に広めたものでした。このあたりにも勝の先見性が伺うことができると半藤さんは言います。
さて、勝と西郷の根回しが功を奏し、4月4日に勅旨が江戸城に入城、11日に江戸城引渡しがなされます。
西軍はこれに先んじて江戸市中に「告諭」を張り出しました。
これまでの事は咎めない、才能のあるものは幕臣であろうとも抜擢する、徳川時代の良い点はそのまま残す、庶民の仕事や暮らしは従来のままである等など、不安の頂点にあった徳川家臣団や江戸庶民を慰撫するための宣言でもありました。
とはいえ、断固戦うことを主張する強硬派は従わず、血気盛んな旗本を中心に3千人が上野の山にこもり彰義隊を結成します。
会津、長岡、米沢、仙台などの諸藩も西軍との一戦を覚悟して兵力を整えていきます。世にいう戊辰戦争です。
五月の上野の彰義隊との戦い。
七月には河井継之助率いる長岡城攻略戦。
九月には会津城攻防戦
翌明治二年の五月の函館五稜郭の戦い
と戦は続き、東軍は奮闘むなしく敗れ去り、ここに明治維新が完遂されることになりました。
戊辰戦争の間にも、新たな国づくりの構想は進められていました。
260年続いてきた徳川時代の日本の統治機構は、幕府が君臨する三百余藩の連合国家体制でした。これを、天皇を中心とした中央集権国家へと転換するのが基本方針でしたが、このパラダイムチェンジを理解できる人々は少なかったようです。
「やがて薩長は覇権をめぐって衝突し、諸藩も動いて再び天下をあげての動乱が始まるだろう」というのが当時の一般的な認識だったとのこと。世情は混乱していました。
そこで、作られたのが、「五箇条の御誓文」でした。
天皇親政の下でとられるべき基本方針を明らかにした、新政府の施政方針演説的な意味合いを持っていたといえます。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

三月に出た御誓文に続いて、七月には江戸を「東京」へ改名すべく詔がでます。
「旧来ノ陋習ヲ破ル」象徴でもあったようです。
同時に東京への遷都策も、岩倉具視を中心に推進されていきました。戊辰戦争での、東北諸藩の強い抵抗をみての政治的な判断が働いた結果でした。
公家には、遷都反対派も数多くいたようですが、明治天皇の予行演習的な東京滞在も経て、明治二年の三月には、正式に天皇が東京に移ります。それに先立ち、二月には、太政官と称した新政府も東京に移り、名実ともに明治時代が始まりました。

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