夕学レポート
2018年12月13日
文法に支配される思考 國分功一郎先生
アイドルが芸能界に入ったスカウト以外の理由あるあるには、「友達が勝手にオーディションに応募しちゃって」とか、「親戚のおばさんが勝手に応募しちゃって」とか、「友達のオーディションに付き添いで行ったら、自分がスカウトされちゃって」などがある。しかし、私たちは「お前、絶対自分で応募したんだろ!」とテレビのアイドルに向かって思う。でも、そのアイドルからすれば、「自分で応募した」と言うと、「自分のこと可愛いと思ってるから、自分で応募したんだろ!」と思われる。「能動的に自分からアイドルになったんじゃないんですー」、「むしろまわりから受動的にアイドルにさせられてしまったんですー」というアピールをしなくてはナルシシストにされてしまうのである。
もしここで、國分功一郎先生が主張する、能動態でもなく受動態でもない「中動態」を皆が使えば、アイドルは「私自分のことなんて全然可愛いなんて思ってないんですけど、まわりからアイドルにさせられちゃった」という受動的にアイドルになったアピールをする必要がなくなる。
まず、中動態のお話から。私たちは誰かを好きになる時、好きになろうと努力して(能動的に)好きなるわけでなく、誰かに強制的に好きになれと言われて(受動的に)好きになるわけでもない。英語でいう”fall in love”こそ的確な表現で、恋に落ちてしまうという能動態でも受動態でも説明できない行為こそ、人を好きになるという行為である。このように能動でもなく、受動でもない「中動態(middle voice)」がかつてのインド=ヨーロッパ語や日本語にも存在していたし、現在でも存在し続けている。この中動態という言葉はややこしいが、能動態と受動態の間にあるわけではない。元々は中動態に所属していたのが受動態であったが、様々な理由があり、中動態は陰を潜めてしまい、能動態と受動態という文法が幅を効かせてきた。
では、具体的に中動態とは何なのか。例えば古代ギリシャ語では「統治者として統治すること」は「ポリテウイン」という単語であり、能動態で表される。これに対して受動態は単純に「統治される」となり、では中動態ではどうなるかというと「政治に参加し、公的な仕事を担うこと」という市民たち自身が自分たちを統治するプロセス(過程)にいるという「ポリテウスタイ」という単語で表される。現代を生きる私たちは能動態か受動態かで「行為」を考えるので、「統治する」か「統治される」のどちらかしか頭に浮かばない。だが、中動態とは行為の主体が能動か受動かの区別ではなく、そのプロセスの内部にいるということを示す。そこでは意志を持って行為をするのかしないのかは問題ではない。
國分先生の仮説は「能動と受動で行為を考えるようになったから『意志』という概念が生まれたのではないか」というものである。実は古代ギリシャには「意志」という概念がない。プラトンにもアリストテレスにも「意志」という言葉は出てこない。先に述べたように、古代ギリシャでは中動態があり、それはその行為のプロセスの内部にいることを表すので、その人の意志は関係ない。意志というのは行動を主体に所属することができる。例えば、「これはお前がやったんだろ」という言葉には、「これはお前の『意志』でやったんだろ」と意味が含まれる。イエスであれば「自分の意志でやりました」という能動的な行為、ノーであれば「自分の意志ではなく、やらされた」という受動的な行為に区別される。つまり、意志というのは責任の根拠または責任の所在を明らかにすることになる。「お前の意志でやったんだから、お前が責任を取れ」と。
だが、よくよく考えると「意志」というものは、無から創造されるものではないように、一元的に決まっているわけではない。むしろ、その前後の相互作用から創造される。冒頭で述べたアイドルは、「自分、すごい可愛いからアイドルのオーディションを受ける!」という意志のもとに能動的に写真を送っているように見えるが、実際は子供の頃から身内に可愛い可愛いと言われて、まあ身内びいきだろうと思っていたところ、友達からも可愛いと言われ、他の同級生達よりもモテたし、テレビを観ていてアイドルに憧れるようにもなって、「友達にアイドルになればいいのに」と言われながらも「無理無理!」とか言ったりして、オーディションに応募して、現在活動しているというプロセス(中動態)にいるだけである。だが、能動と受動で行為が表される言葉で思考する私たちは、オーディションに応募→自薦or他薦。自薦だったらナルシシスト、他薦だったら(すごい可愛いのに自分のこと可愛いと思っていない)素朴な子という短絡的な判断に陥ってしまっている。
人間が能動態と受動態の二つの区分で行為を考え、意志という概念が生まれ、その意思を主体に帰属させることで、行為の責任をもその主体に帰属させるようになった。だが意志はその人から、自然発生してくるわけではなく、その前後の相互作用の中から生まれてくる。これを深掘りすれば、犯罪などもその行為だけではなく、プロセスも考慮するから複雑な思考を求められる。中動態という文法だけでなく、その「プロセスの内部にいる」という考え方は、第三の目のような新しいものが見えるような気がする。國分先生の講演を聴いた後は、確かに自分に意志があるのか、ないのかと聞かれたら、はっきりと「ある」と答えられる自信がなくなってきてしまった。そして、自分の思考がまさかこんなにも文法に支配されているとは思いもよらないことに気づいた。
ほり屋飯盛
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