夕学レポート
2011年11月21日
「安心」と「リスク」の是と非 村上陽一郎さん
村上先生によれば、「科学技術の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図る」ことを目的に作成された「科学技術基本計画」(第二期2001年制定)には、次のようなスローガンが掲げられていたという。
「(科学技術の振興によって)安全で安心した社会を創出する...」
ここに象徴されるように「安全」と「安心」とはセットで語るべき言葉だというのが私たちの通念といってよいであろう。
論理的にいえば、「安全が保証されて、安心が生まれ、それが継続して信頼が得られる」
それが、科学技術と「安全」「安心」を巡る社会的認知の理想的な展開である。
しかし、実際はそうならない。それはなぜか。
村上先生の話は、そこから始まった。
「安心」に相当する英語は見当たらないのだという。
私たちは、「安心」を「気にかけないで済むこと」と理解し、よいイメージを持っている。前述のように究極の実現目標にもなり得る。
ところが西洋では違う
村上先生によれば、「気にかけないで済むこと」というのは、Securityという言葉の原義に近いという。(ラテン語でsed=without=それなしで、 cure=concern=気にかける)
近代西洋では、「気にかけないで済むこと」は悪とされた。
硬直化した中世の呪縛を離れ、人間の可能性を信じて新たなフロンティアに挑戦することが進歩につながるとするのが「西洋近代の精神」だとすれば、新たな挑戦には「健全な緊張感」が不可欠。従って、「気にかけないでいる」ことは悪で、逆に常に「気にかけている」ことが求められた。
むやみな「安心」(気にかけないで済む状態)は、進歩の否定につながると考えたという。
よって、Securityという言葉の意味も、敵の存在を気にかけること。敵から見を守ることに変わっていった。日本人は、このワードに「安全」という言葉をあてた。
さらに言えば、「リスク」という言葉に相当する日本語も存在しないという。
「リスク」とは、危険にあえて挑戦すること。新たなフロンティアに挑戦するうえでは避けて通れないものである。
「リスク」に相当する日本語がないということは、日本人には、あえて危険に挑戦するという概念が希薄だったのかもしれない。
これは私の個人的な見解だが、日本人は、「リスク」はないに越したことはないと考えているのではないか。現に、リスクテイクという言葉を、悪い意味に受け止める人はいまでも多い。
リスクは避けて通るべきもので、コントロールするものという意識もない。リスク0%、安全100%が、日本人が、無意識に求める究極の理想なのではないだろうか。
ところが、近代以降の西洋では、「リスク」を肯定的な概念で捉えている。
「リスク」とは、人間の行為に伴う危険で、人間がある程度制御できるものだと考えているからだ。
人間の行為範囲が広がった=人間が進歩したから「リスク」も多くなるのは当然。
これまで、神の意思として、アンタッチャブルだった謎の多くが、科学の進歩によって解明され、人間がコントロール出来る対象に変わった。
環境制圧的な発想をする西洋人の自然開発に通じる通念である。
「リスク」は確率論である。必然性のある驚異(例えば天災)は「リスク」とは呼ばない。なぜなら人間が制御できないからである。
人間の努力によって、発生確率を抑えることができる事象を「リスク」と呼ぶ。
つまり、「リスク」とは、あくまでも人間がマネジメントできる対象である。
まとめてみると、西洋ではこのように考えた。
安心=必ずしも是ではない。むしろ健全な緊張感を持つべきである。
安全とリスク=人間が制御可能なもの。進歩と引き替えに引き受けるべきもの。
日本人は、異なった考え方をする。
安心=目指すべき姿
安全とリスク=安全100%、リスク0%を無意識に求める
このギャップというよりも概念の混同、錯綜が、日本人の科学技術との付き合い方を難しくさせているというのが、村上先生の整理の仕方である。
科学技術は、西洋流のリスク管理の切り札である。
①いかにしてリスクが起きる確率を減らすか(リスク生起確率の減少)、
②リスクが起きた時の被害をどれだけ抑えられるか(被害事象の緩和)
二つの数字のかけ算で現されるリスクの大きさに対して、それぞれに対する抑制的な媒介変数として科学技術は発達してきた。
しかし、「リスク」を減らしでも、「安心」が実現されるとは限らない。
集団を前提とした確率が減っても、個々の事象は常に「1or0」である。
千年に一度の津波を心配する人にとって、リスク管理の理屈は、意味を持たない。
ましてや、原発の低レベル放射線被害の影響論争に見られるように、科学技術には不確定性や複雑性がつきまとう。どんなに安全基準を厳密に設定しても、どんなにリスク管理を徹底しても、安心の実現には繋がらない。
では、どうすればよいのか。
「安心管理」という概念が求められるという。
村上先生は、「転ばぬ先の杖原理」と表現したが、「安心管理」とは、最悪のシナリオを想定して手と打つことである。
科学技術に不確定性や複雑性が避けられない以上、すべてを専門家の手に委ねることは出来ない。脱専門化をすすめ、「普通の感覚」を取り込んだうえで、生活者の安心が得られるかどうか、不安を解消するためにどうしたらよいかを「社会的合理性」に基づいて議論することだ、という。
なるほど、それしかないのだろうと思う。
しかし、上記のギャップ、概念の混同と錯綜がある以上、「社会的合理性」を追究する作業は、とてつもなく時間のかかる行為であることは間違いない。
はたして、科学技術の側は、それを待つことが出来るのだろうか。
この講演に寄せられた「明日への一言」です。
http://sekigaku.jimdo.com/みんなの-明日への一言-ギャラリー/11月21日-村上-陽一郎/
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