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夕学レポート

2008年04月25日

歴史というものの意志 「海舟がみた幕末・明治」(第5回)

1963年(文久3年)5月10日 長州藩は、馬関海峡を通る米商船ペンプローグ号に向けて発砲、その後も海峡を通る外国船に次々と砲撃を加えました。
長州に苛め抜かれて、一橋慶喜が苦し紛れに発した攘夷実行命令を、長州ただ一藩が実行したという皮肉な結果に形になりました。
この攻撃で長州の意気は上がります。京都でも、過激なテロや攘夷決行を促す詔勅偽造が頻発します。挙句の果てには、天皇を宮中から奪取し、攘夷戦の先頭に打ちたてようという真木和泉の策謀も発覚し、その過激さに孝明天皇は不快感を募らせていきます。
京での微妙な風の変化を受けて、薩摩の盛り返しも始まり、反長州の流れが勢いを持つようになりました。
7月2日、3日には、生麦事件の報復を理由とした薩英戦争が勃発。薩摩は奮闘したものの、7隻の英国艦隊により、薩摩市内を砲撃され、市内全域が消失する痛手を蒙ります。この戦いで薩摩は攘夷論を完全に放棄し、自らが中心となって公武合体を進めながら開国を目指す方向で一気に進み始めます。
反長州の動きは、「八月十八日の政変」として結実しました。
これは長州が握っていた朝廷の権力を奪い、京から放逐しようという長州追い出しクーデターでした。三条実美らの親長州公卿らも都を落ち延びていきました。


明けて1964年(文久4年) 長州なきあとの京の実権は、呼び戻された一橋慶喜と島津久光(薩摩)、松平春獄(福井)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平容保(会津)の6人による「後見邸会議」と呼ばれる合議政治機構に委ねられることになりました。
これは、勝海舟が思い描いていた雄藩賢侯による共和政治のイメージそのままで、海舟が、苦労して慶喜に説いた案でもありました。その目的は公武合体による開国の推進のはずでした。
ところが、肝心の慶喜が、持ち前の芯の弱さを露呈し、幕府の面目に固執する老中の建前論を抑えきれずに、開国論をめぐって、たちまちに会議は紛糾し、共和政治構想はあっけなく崩壊してしまいました。
あきれた諸大名は、またしても京を後にし、残されたのは、慶喜と会津、桑名の両藩、それと新撰組のみとなります。
この頃の京の治安は、攘夷派が一掃され、表向きは平穏無事に見えましたが、水面下では、長州による反撃計画が画策されていました。新撰組の情報網が、この動きを察知し、先手を打つ形で、大掛かりな討伐が行われます。
これが世に言う「池田屋事件」です。
この討伐で、二十余名の犠牲者、捕縛者を出した長州等の尊攘派の憤怒は極まり、長州に身を寄せる浪士もいきり立ちます。
高杉晋作や桂小五郎らの反対を強引に押し切り、過激論を主張する一派が、藩兵を率いて上洛し、幕府や諸藩を相手に無謀な戦いを仕掛けることになります。
「禁門の変」と呼ばれるこの戦いで、長州は完全に敗北。御所に銃口を向けた罪を問われ、長征征伐を招く結果となりました。
一年前までは、思うままに朝廷を動かし、慶喜を窮地に陥れて、攘夷実行の宣言を引き出した長州が、その過激な攘夷論ゆえに、天皇の反感を買い、たちまちに朝敵に身を落とす。
オセロゲームのように、あっという間に黒白の優勢が逆転する幕末特有の非連続的な変化の風は、この時点では、長州への逆風となって吹いていました。
時を同じくして、8月5日には、長州の攻撃を受けた英米仏蘭の四国艦隊17隻が下関を一斉砲撃、近代兵器の前に長州藩はなすすべもなく、砲台を占拠され、講和を余儀なくされます。
下関砲撃と35万人の征伐軍を迎えて、長州の藩勢は大きく動いていきます。
戦いを通じて、高杉の奇兵隊や伊藤俊輔の力士隊など、西洋の近代軍制を範として組織された私兵隊の力が認められる一方で、藩論をめぐっては、攘夷論を倒幕に衣替えした「正義派」と幕府への恭順路線を取ろうとする「俗論派」の対立抗争が激しさを増していきました。
長州征伐の実質指揮を執ったのは薩摩の西郷隆盛でした。
西郷は「長人を以って長人を処置させる」という策略を取り、双方が大きな犠牲を払わずに、長州を降伏させることに成功します。
この策は、知略家としての西郷の声望を全国に高めることになりましたが、幕府の総帥慶喜は、お坊ちゃん気質の悋気を起こして、西郷への冷ややかな論評残したとのこと。
もっとも彼自身が、身内(水戸藩)の過激派を扱いかね、自らを頼って蜂起上京してきた天狗党を見殺しにするという、つらい決断を迫られていたという側面もあるようです。
さて、ここまでは、はしゃぎすぎた長州の挫折をめぐる歴史の流れのおさらいですが、半藤さんは、この時期に日本の近代史に名を残す三人の偉人の邂逅があったことを強調しました。
西郷隆盛と勝海舟、坂本竜馬の出会いです。
1964年(文久4年)の秋、長州征伐軍の参謀役を命じられた西郷は、人を介して会うことを進められた勝海舟を訪ねます。この時、勝は幕府の軍艦奉行として神戸にいました。
勝は、西郷に対して、幕閣の立場を超えた率直な持論を披露したそうです。
1.幕府の屋台骨は腐りきっていて、人材はいない、幕府を相手しても駄目だ
2.喫緊課題である兵庫開港問題は、横浜・長崎の貿易量増大を条件にすれば外国はあきらめずはず。
3.雄藩諸侯の合議制による連合政権構想こそが現状打破の最上の策である。
たった一回の出会いをもって、西郷は、勝の知略と、見識の深さに感銘しました。
また、勝も西郷の大胆識と大誠意を深く心に刻んだようです。
勝は教え子である坂本竜馬にも、西郷に会うことをすすめます。
竜馬は西郷を評して、「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だ」と語ったとのこと。
竜馬もまた、一回の出会いで、人間としてスケールの大きさという西郷の魅力を見抜いたということでしょうか。
半藤さんは言います。
「歴史というものに意志があり、大事業を行うために必要な三人の人物を、その意志において合わせたのではないか」
目前に迫った慶応という時代は、この三人が歴史の主役として登場し、時代の大転回に向けた舵取りを担うことになっていきます。

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