夕学レポート
2008年05月16日
討幕への気運高まる 『海舟が見た幕末・明治』(第7回)
1866年(慶応2年)6月7日、幕府の発意から一年間ももたついて、ようやく長州再攻撃の命が下りました。西国の各藩で構成されたものの戦意に乏しい幕府軍でした。
開戦と同時に、長州の近代兵器と巧みな戦術の前に敗走が続きます。
このとき、龍馬も長州軍に加わって、戦いに臨んだとのこと。また肺病が悪化していた高杉晋作は、血を吐きながらの陣頭指揮だったそうです。
折も折7月20日、大坂城で征長政策の指揮を取っていた将軍家茂が、22歳の若さで急死します。将軍の座を争った一橋慶喜による毒殺ではないかという噂が立つほどの急なことでした。糖尿病の悪化からくる脚気衝心によるもので、噂は、ひとえに慶喜の人望欠如から起きたものだろうというのが、半藤さんの解説でした。
家茂の遺言は「田安家の亀之介を後継に」というものでしたが、まだわずかに3歳、あとを継ぐべきものは慶喜しかいません。
しかし慶喜は、これを拒絶。
「徳川宗家は継ぐが、将軍は継がない」という奇策を弄します。
一方で、長州征伐には積極的で、自ら出陣すると勇み立ちます。
ところが、先述のような敗走の連続に、お得意の「二心(ふたごころ)」が顔を出し、急に戦意を失います。
8月16日には、5月に復職したばかりの勝隣太郎を呼びよせ、休戦協定締結の密使を命じます。後始末を任せられるのは、長州に知り合いが多く、胆力と交渉力のある勝しかいなかったのでしょう。
とはいえ、既に慶喜の口から休戦の意思を表明されてからの交渉ですから、勝もたいへんでした。高圧的な長州の要求に対して、頭を下げ続けながら、なんとか決着をつけ、帰坂して慶喜に報告しますが、慶喜の理解はまったくなし。逆に長州びいきをなじる始末でした。
自分の策に酔い、支えてくれる人々の気持ちを理解することができないお坊ちゃん気質の表れでしょうか。勝は大喧嘩のすえ、また免職になります。やれやれ。
8月20日、家茂の死を理由に、朝廷は休戦の沙汰書を布達せざるをえませんでした。
度重なる大変節に、慶喜の評判はガタ落ちとなり、孝明天皇も激怒したとのこと。
かつての盟友でありながら、何度も煮え湯を飲まされてきた松平春獄は評したそうです。
「百才あって一つの胆力なし、胆力なければ百才ふるえど猿芝居に等しい」
誰もが共感したそうです。
さて、幕府の権威と権力が地に落ちたこのタイミングを見計らうように、ひとりの策士がうごめき始めました。
和宮降嫁を批判され、洛北に逼塞していた岩倉具視です。
大原重徳、中御門経之をたきつけ、22名の宮中延臣を糾合し、孝明天皇への直訴行動を起こします。幕府との協調関係を改め、朝廷中心の新たな政治体制づくりを訴えたものでした。
天皇は、22名と会い、訴えに耳を傾けますが、あまりに激烈な表現に感情を害し、要望を全てはねつけます。
この失敗に怯むことなく、岩倉は、大久保一蔵を中心とする薩摩と共謀し、「王政復古」に向けて、舵を取り始めていきます。
慶喜もこの動きに対抗します。
将軍職を継がないことは、政治の大権を朝廷に戻したことだと宣言し、お手並み拝見を気取ります。
朝廷に政権を担う力量がないことを見透かした策でした。
一方で、フランスとの関係を深め、軍備を増強し、軍事顧問団を招いて洋式軍政への改革を進めます。横須賀製鉄所も開設し、着々と準備を整えてはおりました。
朝廷は右往左往し、有力諸藩に上洛を求めますが、各藩はすでに日和見状態となり、誰もやってきません。
極まった朝廷は、秋には、慶喜にへりくだった要請を重ね、助けを求めるしかありませんでした。直訴行動を起こした公家を処罰し、反幕府勢力を朝廷から一掃します。そのうえで11月27日には、勅使が二条城に赴いて、慶喜に対して将軍宣下を正式に伝えます。
慶喜としては、朝廷を手玉に取って、意気揚々と将軍職を受諾したつもりだったのでしょうが、裏側では、岩倉、薩摩の討幕運動が着々と進行していました。
暮れも押し迫った12月25日、孝明天皇が突然死去。享年三十六才。
疱瘡によるものと発表されたこの死について、いまも歴史家の間で、「毒殺説(ヒ素)」「病死説」の論争があるとのこと。
半藤さんの立場は、「毒殺説」です。
12日に発熱し、25日に死去、29日に公表されるまでの17日間の事実関係を丹念に確かめていくと、死亡から公表までの4日間の空白が、なんとも意味ありげに感じるそうです。
「疱瘡に罹患したのは、事実だろうが、その期に乗じて毒を盛ることは十分あり得る」ことだということです。
天皇の側には、先に閉門された中御門卿の娘や岩倉の実妹が仕えており、状況証拠は揃っていました。
さて、「毒殺説」「病死説」は別としても、孝明天皇の死は、朝廷内に反幕府勢力が復活する契機となったことは間違いないそうです。
ただちに恩赦が実施となり、大原重徳、中御門経之らが許され、岩倉も幽門を解かれます。朝廷内の策士が揃ってきました。
明けて慶応3年(1867年)、いよいよ明治天皇が即位します。
前年夏に直訴事件を起こした公卿達も罪を許されました。
晴れて表舞台に復活した岩倉具視は、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助等と密議を重ね、討幕準備が佳境に入って来ました。
4月には島津久光が三千人の大軍を率いて上洛し、久光、松平春獄(福井)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)の雄藩会議を要求します。
この場で、慶喜の一連の行動(兵庫開港など)を糾弾、責任追及をし、将軍職を辞退させようという腹づもりでした。大久保から久光に対して、「討幕準備は進んでいる。居丈高に圧倒すべし」という奏上もありました。
ところがどっこい。慶喜の機転と弁舌の前には、お殿様連中では歯が立ちませんでした。久光は見事に論破され、雄藩会議はたちまちに崩壊します。
修羅場には弱いが、論争には強い慶喜。
「慶喜あなどるべからず!」西郷はそんな感想を手紙に残しているとか。
もはや話し合いによる討幕は無理、力による対決以外に革命の道はない。
西郷、大久保等は、この時点で武力討幕に方針を決定、土佐(板垣退助)、芸州なども味方に引き入れて、勢力を整えます。岩倉の暗躍もいよいよ活発になっていきます。
京都では、孝明天皇が庇護していた会津、桑名への風あたりも強くなり、その傘の下で暴れていた新撰組への反感も、日増しにつのっていったそうです。
全国に「ええじゃないか」の世紀末的狂躁が伝播していく頃、討幕の戦いは、最後の役者長州の再登場を待つばかりとなっていました。
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