KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

2012年03月16日

「あの日」を記録する

言わずと知れた東日本大震災、そう昨年の3月11日。あなたはどこで何をしていましたか?
昨日のように鮮明に覚えている方もいらっしゃるでしょうし、思い出したくもない方もいらっしゃるでしょう。
先日twitterで『震災の記憶が風化しないように』という論点に対して、「忘れるわけがない」と言った人がいましたが、残念ながら記憶は少しずつ薄れて、そして時には無意識に書き換えられてしまうものです。
特に感情は。
これは震災に限りません。「なぜあの時あんなことがあんなに楽しかったのだろう?」などと後で首をひねった経験は誰しもあるはずです。
忘れたい恐怖感や怒りなどはなおさらのこと。
ある意味、時間はとても優しいのです。
しかし忘れてはならない事実、忘れるべきでない感情もあります。
たとえそれが辛い事実と感情であっても、です。

昨年の震災はその典型でしょう。
「のど元過ぎれば」にしてはならない事実と感情が。
では、忘れないためにはどうすべきか。
これはもう「記録する」しかありません。
あの震災で直接的・間接的に被害を受けたその事実を、そしてあの時感じた様々な感情を記録すること。
これが「忘れない」ために必要です。
また、記憶をたどって記録するプロセスの中から新たな事実や感情を思い出したり、今後に役立つ気づきを得ることもあるでしょう。
そう、記録することは「忘れない」ためだけでなく、思考の活性化にも繋がるのです。
ですから私も今回は薄れつつある記憶を頼りに、あの日のことを今さらながら記録してみようと思います。
あの日を忘れないために。そして何か気づきを得るために。
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あの時、私は丸の内の10階にあるオフィスにいました。
夜はクラシックのコンサートに行く予定でしたので、少し早めに職場を出ようと考えていました。
そして14時46分、地震がやってきます。
最初の揺れから「いつもと違う」と感じていましたが、巨大な揺れにおそわれた時、「これは本気でヤバい」と思いました。
机の書類が床に落ち、生まれて初めて真剣に机の下に潜りました。
窓の外を見ると、向かいの建設中の東京中央郵便局ビルの吊り下げられた照明が天井に付かんばかりに揺れています。
「こちらに倒れてきたらどうしよう」と本気で思いました。
揺れはいつまでたっても収まりません。大きさだけでなくこんなに長時間続く地震も初めてです。
ようやく揺れが収まるとオフィスで声を掛け合って無事を確認し、普段はキャンパスの各部屋が映し出されている液晶ディスプレイをテレビにしました。
丸の内地区は基本的にビル内待機なのです。
周りの無事は確認できたものの、日本橋で働いている奥さん、そして高校に通っている娘とは連絡が付きません。
携帯電話は全く繋がらないので、まずは固定電話で宮崎と新潟の実家に電話し、私はとりあえず無事であること、奥さんと娘の安否が確認でき次第また連絡することを伝えました。
私の母親は涙声です。心配かけて申し訳なく思います。
そうしている間にも余震が来ます。
キャンパス内の壁にもひびが入り、ビルのあちこちがギシギシと音を立てています。
テレビは「震源は宮城県沖、最大震度は7」と繰り返し伝え、お台場のビルでは火災も起きているようです。「これは大変なことが起こった」と実感しながらも、連絡の付かない家族の安否が気になります。
15時30分、ようやく携帯で家族にメールを送ることができました。
「大丈夫? 連絡よろ」と。
その時、テレビには信じられない光景が映っていました。
家を、道路を、畑を飲み込んでいく津波です。
「これは現実か?」 …声が出ません。
あの中に何人の人がいるのか? できればみんな無事に避難できていますように… 祈るような気持ちでした。
16時20分、ようやく娘からの返信が。
「うちでいろんなもの倒れたorz そんなに被害はないけど。 東京湾内陸に大津波警報来た時に備えて避難準備は完璧です」
ほっとすると同時に我が子をとても頼もしく思いました。
テレビが伝える状況から、今日は帰れないと覚悟します。
手分けして食料の確保と寝る場所を準備し、「なんか文化祭前日の合宿みたいだね」と努めて明るく振る舞います。
17時、ようやく奥さんから無事を知らせるメールが届いたので、実家に連絡。
娘からも「ケガはしてない! 飾り棚は守り抜いたから(家の中の)被害はないよ」とのメール。これで我が家としてはとりあえず喫緊の問題はなし。後は安全に帰宅するのみです。
18時30分、奥さんから「ママはとりあえず職場で待機して、電車が動き出したら帰る」とメールが来ましたが、いつになるかわからないし、途中から徒歩になると大変なので私のオフィスに合流するよう指示。
そうこうしているうちにMCCはすっかりお泊まりモード。自転車通勤のスタッフが調達してくれたカップラーメンも到着し、晩ご飯の準備もできました。
誰一人取り乱さず手分けして自分にできることをやる。本当にすばらしい同僚たちです。
その後奥さんも合流し、少し奇妙な晩ご飯のスタートです。暖かいものを摂り、少しずつみんなに笑顔が戻ります。
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ここではこのくらいにしておきましょう。
結局私と奥さんは深夜動き出した地下鉄で帰宅し、家族そろって無事を喜び合うことができたわけですが、それで「めでたしめでたし」でなかったことはご存じの通り。
物資不足に原発事故と、まだ震災は終わっていません。
私も確かに被災者ではありますが、私の苦労と不安など東北の方々に比べれば全然たいしたことはありません。
しかし、今回こうして「あの日」を振り返ってみると、すでに忘れ始めている事実や感情があることに愕然としました。
忘れてはならないはずなのに。
その意味でも、あの日を記録するのは意義あることだと思います。
ただ、すべて忘れないのが良いこととも言えません。
「忘れた方がよいこと」もあるはずです。
最初に述べたように時間は「忘れたいことを忘れさしてくれる」優しい一面も持っています。
そう言えば、以前私の知人がこう言っていました。
「記録って、忘れてもいいようにするために取るんですよね」
確かに、「忘れるために記録する」という側面もあるかもしれません。
「あの日」を忘れないために、また忘れるために、そしてそこから何か大事なものに気づくために、あなたも記録してみませんか。

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