KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2014年05月16日

『邪道』から生まれるイノベーション

先日、Facebookでのやり取りの中で、ある方が「私は(中略)しています。邪道かもしれないけど」と言われました。
私はそれに対して「邪道なんかじゃなくて、そっちの方が賢いやり方かと」と返しました。
そしてふと考えたのです。


そもそも、『邪道』ってなんだろう?
「邪(よこしま)」な気持ちがなくても『邪道』って言われるのはなぜなんだろう?
邪道と言われようが、実はそのやり方で問題ない、いや、そっちの方が良いこともあるはず。
結局、「邪道かどうか」は、主観に依存するのでは?



『邪道』とは、「邪(よこしま)な道」と書きます。
「道」とはゴールにたどり着くために通るもの、つまり手段、やり方のこと。
つまり、この言葉は「間違ったやり方」を意味します。
しかし、「間違っているか否か」は、どうやって判断しているのでしょう。
2つの判断の仕方が考えられます。
ひとつは、そのやり方を知っており、経験的にそのやり方に問題がある(たとえばそのやり方では効果が出ないとか、効果はあっても弊害も大きいとか)ことがわかっている場合です。
これなら、確かに説得力はあるでしょう。
そしてもうひとつ。
そのやり方を知らない、つまり初めて見聞きしたのに『邪道』と判断する場合も多いはず。
しかし単に「知らない/教わっていない」、つまりそのやり方が、自分の考える「普通と違う」からといって、間違っていると言えるのでしょうか。


私自身の経験談でお話ししましょう。
会議でブレストを行うとき、なかなか参加者からアイデアが出てこないので、考えるきっかけ(切り口)を提示しました。
「これから連想する音って何ですかね? そこから考えてみましょう」
そうしたら、アイデアがいくつも出てきました。次に私は、
「じゃあ今度は、連想する景色から考えてみましょう」
と切り口を変えたところ、またそれまでには出なかったアイデアが次々に出てきました。
これは要するに言葉だけでなく、視覚や聴覚という身体感覚も加えて思考を活性化させようとしたわけですが、この経験をある人に話したところ、
「うーん、ブレストのやり方としては邪道だなあ」
と言われてしまいました。
その方曰く、プレストは自由に発想させるもので、切り口を与えることで、思考に枠をはめてしまうからダメなのだそうです。
しかし、ひとつの切り口だけでブレストするのなら、「枠にはめる」と言えるかもしれませんが、複数の切り口であれば、その指摘は的外れなはずです。
何より、自由に発想させるといっても、ブレストになれていない人が、そう簡単にアイデアをポンポン出すのは至難の業。
逆にこの方が、「ブレストとはこういうモノ」と、枠にはまった考えたかをしているとすら言えます。


この例に限らず、同じように「これはこういうやり方をすべきモノ」という固定観念に縛られ、自分の知らないやり方や使い方を『邪道』と断じいるケースは多いはずです。
その結果、せっかくの「新しく、そして優れたやり方」の恩恵を受けられない。
これは非常にもったいないことです。


いや、単に「もったいない」だけでなく、こうした『邪道』という判断から浮かび上がる『固定観念』が、様々なイノベーションを阻害していると言ってもよいでしょう。
言い方を変えれば、「『邪道』からイノベーションは生まれる」のです。
ちょっと古い話になりますが、携帯電話が普及するずっと前、忙しい営業マンや、大病院の医者を捕まえるツールとして、ポケットベル(ポケベル)がありました。
しかしある時、この仕事の現場で使われていたポケベルが、一般消費者、それも女子中高生の間で爆発的にヒットしました。
そう、彼女たちは、単なる数字の羅列を、なかば暗号のように(たとえば「14106」=「アイシテル(愛してる)」)駆使し、日常的なコミュニケーションツールとしてポケベルを利用したのです。
これはまさに『邪道』であり、しかし『イノベーション』でした。


『邪道』と断じてしまう前に、「本当に間違っているのか?」と自分に問うてみる。
あえて『邪道』、つまり今までとは違うやり方をしたり、あるモノを違う用途に使ってみる。
この『邪道』とは、イノベーションを起こすためには、実は便利なキーワードであり、切り口であると思うのです。

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