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慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

ファカルティズ・コラム

2018年04月13日

「言葉の定義」を意識しよう

Twitterでこんなやりとりがありました。
Aさん:「論理的思考力を養うためには、数学を学ぶのが最も合理的」
Bさん:「高校までの数学は、正解を出すには直感やひらめきが求められ、論理を学ぶには最も適さない」
いかがでしょう。
このやり取りを見ていて、私は「話がかみ合っていないなあ」と感じました。
そしてその原因は、「言葉の定義」にあると考えたのです。
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私がまず感じたのは、「論理的思考力を養う」ことと、「論理を学ぶ」ことは、イコールではないのでは、ということでした。
筋道を立てて「ということは」と答を出す「論理的思考」ができるようになる、ということと数字によって世の中の構造、つまり様々な「論理:ロジック」を知る、ことは同じとは思えなかったからです。
お二人とも決して間違ったことは言っていない。
しかしお互いがお互いに反論をしている背景には、「目的の違い」があるのでは?
しかし当然「論理的思考力を養う」と「論理を学ぶ」が、ほぼ同じ意味で使われてことも考えられます。
しかしそうだとしても、お二人の意見のどちらかが正しく、どちらかが間違っているとは言えないのではないか。
そう考えると、「論理的思考」そのものの定義、この場合は「範囲」が異なっているのかもしれません。
主張を見ればわかるように、Bさんは「論理的思考」の対極に「直感・ひらめき」を挙げています。
「これがこう、ということは○○で、ということはここは××で」と、一歩一歩考えを進めていくのではなく、「これがこう…ならここは××かも?」と発想を飛躍させる、こうしたひらめきや直感が数学の問題を解くためには重要だ、と述べているわけです。
それに対してAさんは…?
ひょっとすると、「多少論理の飛躍があっても、それはそこに論理がないのではなく、省略ないし説明できないだけ」と考え、「直感・ひらめきも論理的思考の範疇」と考えているのかもしれません。
実は私自身、「思考に論理的でないものはない」という立場です。
直感やひらめきといっても、その元となっているのは自分の価値観と経験、知識です。
それらに無意識的に照らし合わせて出した答、それが直感です。
斬新なアイデアが「ひらめいた」としても、その元となっているのは昔見たテレビ番組だった、などということは普通に起こりえます。
であれば、直感やひらめきも「論理的思考」と言ってもおかしくはないはずです。


さて、本日はTwitterでの論争(やりとり)を題材にしてきましたが、私が言いたいのは「だから言葉の定義をちゃんとしよう」ということです。
私たちは言葉を使って思考・コミュニケートしている以上、特に今回の「論理的思考」のような概念的・抽象的な言葉はきちんと定義すべきです。
そうでないと、「抽象的なことを漠然と考えてしまう」という思考の問題を引き起こします。
結果悩む時間が長くなったり、抽象的な一般論しか思いつかなかったりします。
また対話や議論というコミュニケーションにおいては「誤解される/話がかみ合わない」という問題を引き起こしてしまいます。
今回の論争がまさにそれではないでしょうか。
他にも、たとえば「顧客」という言葉にしても、「既存顧客だけ」を意味するのか、「見込み客」までも含むのか、それを定義しないと、議論がかみ合わないのは当然です。
ひとりで考える場合には、常に「言葉の定義」を意識しましょう。
そしてコミュニケーションにおいても。
時には「今回は『顧客』は既存顧客に限定して考えましょう」のように、定義を共有してから議論に入りましょう。
言葉を定義する。
この良い習慣をつけましょう。






個人的には、数学と並んで論理的思考力を磨いてくれるのが「国語」、それも物語や評論文の「読解」だと考えています。
文章の中にちりばめられた様々な情報を元に「ということは、筆者が言いたいのは○○では」と考え、答えを出す。
これこそ論理的思考そのものだからです。

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