2015年06月09日
ヒトを喰う[第6回]
ほり屋飯盛
阿刀田高さんと楽しむ【短編小説と知的創造】第6回
ヒトがヒトを食べるのは罪だろうか?
もちろん猟奇的な意味では無い。今にも飢え死にしそうな時、目の前にある食物がヒトしかなかったら。食べて生き延びるのが正しいのか、それとも食べずに死んでいくのが正しいのか。今回の短編小説のテーマがこれである。
武田泰淳著『ひかりごけ』は、実際に起きた難破船長人肉事件を基にして書かれているが、「ヒトを喰う」という重いテーマとは反対に、文章は流れるように軽い。なぜなのか。今回は、その技法を小説家阿刀田高先生から教わり、人間の原罪について皆で意見を述べ合った。
「実力の割にあまり評価が高くない作家です」と、阿刀田先生は武田泰淳について話し始めた。講座の参加者も、初めて武田の小説に触れたという人が多い。
1912年に僧侶・大島泰信の三男として東京で生まれた。元の名前は覚(さとる)というが、父の師僧武田芳淳に継嗣がいなかった為、その養子となり名を武田泰淳と改めた。
東京帝国大学支那文学科に入学するも、反戦運動で逮捕され一年で退学。その後は兵士として中国に派遣され、司馬遷や魯迅に親しんだ。
さて、『ひかりごけ』である。
人生を振り返ると、私はこういう作品をずっと避けてきた。『羊たちの沈黙』だの『ハンニバル』を好んで観る人は危険人物で、取り締まったほうが良いと思っている。まず、私は血を見るのが嫌いだ。テレビで手術シーンが始まると、目を限りなく細めて見る。去年の健康診断では34歳にして注射が怖いのと、看護師に腕を触られるのが嫌で採血前に気を失った。そんなチキンの心で『ひかりごけ』を目細めて読みはじめたが、講座の一日前には目を開いて読み終えた。
小説は主人公の《私》が北海道の羅臼(らうす)を旅している風景からはじまる。私は地元の中学校の校長の案内で、マッカウシ洞窟へひかりごけを見に行く。そこで、校長からペキン岬で起きた「難破船長人肉事件」の話を聞いた私は戯曲を作る。
小説は紀行文的な文章が終わり、戯曲形式へと変わる。
第一幕の登場人物は、船長(悪相の男)、船員の西川(美青年)、八蔵、五助の四人である。登場人物のセリフでストーリーは進む。
阿刀田先生がこの作品を課題図書に持ってきた理由がここにあるという。
旅先で聞いた不思議な話は、小説の始まりとなるケースは多い。そこから、いかに凡庸ではない作品を創りだしているか。小説の後に、いきなり戯曲となるケースは非常に珍しいという。後半に戯曲を取り入れることは、いささか強引ではあるが、ユニークで「ヒト喰い」というテーマを柔らかくしているとのことだ。
船長:なぜ喰わねえだ。喰わねえじゃなくて、喰えねえだべ。
西川:うんだ、喰えねえ
船長:なぜ喰えねえだ
西川:・・・人の肉を喰うなあ、恥ずかしいこった。
と方言での会話になると、ヒト喰いの相談をしているにも関わらず陰惨さが消える。悩み苦しんでいる切なさのほうが読者に伝わってくるのだ。
五助が一番に死に、残りの三人は五助を食べるか相談する。五助を食べなかった八蔵は衰弱し、人肉を食べた西川の背後に「光の輪」が見えると言って死んでいく。残ったのは二人。西川は船長の殺意を感じ「おら、おめぇのとどかないところで、死ぬだ」と言うが、船長が西川の屍を抱えてうずくまっているところで第一幕が終了する。
餓死状態の時に、ヒトの肉を食べるかどうか。私は感想シートに「肥満体、薄毛、変な顔、年寄りは食べたくない」と書いたら、先生も「私もこれから飛行機に乗る時は、墜落した時のことを考えて、あらかじめ美味しそうな人に目星を付けておきます」と意外とノッてくれ、「ほり屋さんは美味しそうだから、食べてあげますよ」と言われた。それを聞いた薄毛のSさんに「ほら、薄毛は食べたくないとか書くから言い返されるんだよ」と、薄毛の逆襲を受けた。このように「ヒトを喰う」ことについて明るく話し合えることも、この小説が戯曲形式をとっているからだと思った。
また、「『アンデスの聖餐』を読むといいですよ」と、飛行機が墜落した後、生き延びるために仲間を食べた物語を先生はおすすめしてくれた。「ラグビー選手の若くて健康的な肉なので、ほり屋さんのお好みだと思います」と言うと、またもやSさんは「若鶏だよ。若鶏。」と茶々を入れる。場は和やかだ。
子どもの頃に社会科見学で魚の解体ショーを見て貧血で倒れたことがある。なので、私には人間を解体することは出来ない。せめてスーパーで、切身で買いたいと思った。「顔が見える野菜」みたいに、切身のパックに顔写真、体重、年齢、毛髪の状態をシールにして貼っておいて欲しいと思った。ただ、生前も死後も売れ残りになるのは嫌だ。
保険証の裏に、脳死後、臓器提供をするかしないか書く欄があるが、あれと同じく「死後人肉になりますか。はい・いいえ」という欄を作って欲しいと考えていたところ、「人肉を食べるのは、臓器移植に似ているのでは?」という意見がIさんから出て、同じように考える人を見つけて嬉しかった。
司会進行をしているスタッフの湯川さんが「お肉は食べられないけど、誰かの役に立つなら食べてもらいたいと思った」と言ったので、Iさんの「人肉喰い=臓器提供」という意見は、参加者の考え方に影響を与えているなと思った。
戯曲は第二幕へと続く。舞台は六ヶ月後の法廷へ。船長の顔は、作者をマッカウシに案内したあの中学校校長の顔に変わっている。
人肉食罪を追及された被告人の船長は「私は我慢しているだけですよ」と陳述し、検事の怒りを買い「お前は恥を知らぬのか」という言葉を浴びせられる。「私は、他人の肉を食べた者か、他人に食べられてしまった者に裁かれたい」と迫るが、検事は「自分は人肉など食べたことはあるはずがない」と言う。しかし、最後には検事をはじめ、裁判長、弁護人、傍聴人と全員の背後に、人肉を食べた印の「光の輪」が浮かぶのだ。
私は、船長が生きるために人肉を食べたのが罪だとも、汚らしいと思わなかった。四人全員死ぬより、一人でも生き延びたほうが良いと思う。『南極物語』のタロとジロだってそうだ。共食いしたかもしれないが、生きていたからこそ感動があった。生きるためなら、人間が人間を食べても下劣とは言えないと思った。
武田は文中で五つの例を挙げ、どの殺人が罪悪だろうかと読者に問いかける。
一、単なる殺人
二、人肉を喰う目的でやる殺人
三、喰う目的でやった殺人あと、人肉は食べない
四、喰う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる
五、殺人はやらないで、自然死の人肉を食べる
羅列はされているが、答えは書いていない。そこには絶対が無いからである。だから武田泰淳は『ひかりごけ』を書いて、世の中に問うたのではないか。
このことに考えさせられたというKさんは、「どれも良くないが、殺人のあと食べないが一番良くないと思った」と感想を述べていた。確かに。食事に行き、あれもこれもと注文しておいて残す人が一番腹立つ。「食べられる分だけ頼めよバカ」と思う。女の子と食事に行った後、連絡が取れなくなったり、LINEでブロックされたりする人は、ちゃんと残さず食べているか己を振り返ったほうが良い。
色々と考えさせられた小説『ひかりごけ』だが、参加者の評判は非常に良く、この講座に参加しなければ出会わなかった小説だという感想が多かった。また、戦前生まれの方も「『ひかりごけ』の一作をもって、日本にも戦後文学があると言えるのではないか」と感じだそうだ。(ここでいう戦前とはもちろん第二次世界大戦前)
『ひかりごけ』は実際に起きた事件を題材にしたフィクションであるが、全てが事実に基づいている訳ではない。そこで、「事実とは異なることを書いていいのか?」という質問が出た。
阿刀田先生は生まれ育った長岡が舞台の小説『峠』を例に挙げ、「どんなに長岡の郷土史家が『実際の河井継之助は違う』と言おうとも、司馬遼太郎が書いた途端に事実になる」と、有名作家の影響力がいかにすごいかを教えてくれた。
さすがに、聖徳太子や織田信長のことを書くのは許されるが、近い時代のことを書くと名誉棄損になるケースもある。英雄的な書かれ方をする人もいれば、人の裏側をこれでもかと抉るような書かれ方をする人もいる。作家車谷長吉は名誉棄損で訴えられ、「私小説家廃業宣言」をした。車谷の言葉を借りれば、モデル小説というのは、小説の材料にした人々には犠牲の血を流させる行為である。
しかし、それでも書く作家は、それだけ強い思いがあり、世の中に出すという使命感があるのだと先生は強調した。例えば小説『黒い福音』も、容疑者の無罪を許せなかった松本清張が一種の告発本として書いた。作品は「こいつが犯人だ」とは断言しないものの、読者は「きっと、あの事件だろう」と思いながら読むのである。
結論「私は現実を書かない」と阿刀田先生は言い切った。理由は、事実を書こうと事実でないことを書こうと、誰かを傷つけるからだそうだ。
また、書くことの責任ということから、実名かペンネームどちらを使うかという話になった。阿刀田先生はもともとの苗字が特殊なことから、実名主義の作家常盤新平にペンネームだと疑われて、すごい目つきで見られていたという。(後に誤解が解け優しくなった)
物事を書くには強い力と負担があり、正直ツライと思うこともあるが、責任を取るには実名で書くことを大事にしていきたいと、ペンネームを使わないことを選んだ。「『阿刀田』という苗字で、子供たちは影響を受けてきましたけどもね」と、珍しい苗字ゆえ、お子様たちは作文を上手く書いても「作家の息子だから当然」となり、下手に書くと「作家の息子のくせに」と言われていたそうだ。作家の子供も大変である。
『ひかりごけ』は三國連太郎主演で映画にもなっている。スタッフの湯川さんがレンタルビデオ屋でVHSを見つけたそうで、次回の講座開始前に上映会が開催されることになった。一人では観るのが勇気いる映画を、皆で観れば怖くないということだ。
そして、次回は最終回だ。課題図書は阿刀田高先生の『サンジェルマン伯爵考』と伊藤整『芸術とは何か』だ。作者本人に直接質問できるチャンスなので、聞きたいことを用意して臨もうと思う。
講座詳細: 『阿刀田高さんと楽しむ【短編小説と知的創造】』 講師:阿刀田高
ほり屋飯盛
1980年生まれ。小田嶋隆先生曰く底意地の悪い文章を書く人。文学好き。古典好き。たびたび登場する10歳下のT君に夢中。「夕学リフレクション」のレビューも執筆している。
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