KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2007年07月10日

「溢れ出るエネルギー」 徳岡邦夫さん

「仕事柄、和服を着ることも多いのですが、正蔵師匠と間違えられることもあって...」
といきなり会場の笑いを誘った徳岡さん。
ご自身でおっしゃる通り、全体的な印象と人懐っこい笑顔は、林家正蔵師匠とよく似ています。
ただ、近くで拝見すると、いわゆる「目力」を感じる人です。眼鏡の奥の目はキラっと光っていて、好奇心やパッションに満ちている気がします。
お聴きしたところでは、徳岡さんは破天荒な少年・青年時代を送ったようです。高校中退、再入学、僧侶生活、独立しての起業等々。
面白おかしく、若い頃を語る徳岡さんのお話からは、溢れ出るエネルギーを制御出来ずに、暴れ馬のように生きていた若き日の姿が想起できました。
思うにその頃から、既成秩序の枠にはまらない、自由かつ挑戦的な性質を生来の価値観として持っていたと思われます。


20歳の時に、三度目の「吉兆」での修行に入った徳岡さんは、大阪吉兆、東京吉兆と場所を変えながら料理の道を究めていきます。
ようやく料理の面白さに目覚め、腰を定めようと、故郷でもある京都吉兆に戻った徳岡さんを待っていたのは、バブル崩壊による猛烈な逆風だったそうです。
お店は閑散とし、調理場では板前がごっそりと辞めていく。
「もう吉兆は時代に必要とされていないのではないか」と思い悩み、店をたたむことも考えたとか。
もし、徳岡さんが順風満帆に育った苦労知らずの三代目であれば、ここであきらめたのかもしれませんが、徳岡さんには、逆境をチャンスに変える強さがありました。
時代に応じた新しい「吉兆」へと変革をすることを目指し、それが今日の成功への出発となりました。
苦境に陥った「吉兆」を立て直すべく、徳岡さんが、まずやったのは、吉兆の歴史を調べることでした。それは祖父であり創業者である湯木貞一氏の足跡を辿り、思想の変遷に思いを巡らす作業でもありました。
「吉兆」は、湯木氏が、昭和5年に大阪に店を構えたのがはじまりだそうです。
卓越した料理人であった湯木氏は、当時の大阪財界人や茶人の知遇を得て、密な交流をすることになりました。
昭和14年に料亭としては珍しい株式会社形態に改め、戦後は、東京オリンピック前の東京にいち早く出店し、高度経済成長化にあって日本を代表する高級日本料亭としての地位を確立していきます。
90年代初頭には、分社化を推進し、「吉兆」ブランドの維持と地域独立事業形態を完成させました。
湯木貞一氏は、料理人としての腕前はもちろんのこと、「先を見通す目」「大胆な決断力」「柔軟な仕組み構築力」を有した優れた経営者でもありました。
徳岡さんは、上記の歴史から、「吉兆」のDNAは、「人と人との関係を大切にすること」だったと喝破しています。
そして、これを「変えてはいけないもの」として、いまも守り続けています。
一方で、時代に合わなくなったものとして、「一見さんお断り」に代表される閉鎖的な料亭体質を改めていきます。
いわば、マーケティングや人事・組織の革新に取り組んだわけです。
当然ながら、大きな軋轢や反対に遭遇したそうですが、持ち前の粘り腰と、「人と人との関係を大切にする」という原点に立ち返ることで乗り切り、現在の名声を手にしました。
いまや、徳岡さんには、世界の食通や富豪からお声がかかるそうです。
ウクライナやインドの大富豪に招かれ、彼らの邸宅で料理の腕を振るうのだそうです。
また、経営者としてもアクティブで、海外出店も視野に入れ、海外一号店をどこに開くかを考える毎日だとか。
更には、スローフード教会のアドバイザーとして、日本の食文化や、食を支える農業振興のための活動にも積極的に関わっています。
料理人として、経営者として、食文化の啓蒙者として八面六臂の活躍を続ける徳岡さん。
いまの徳岡さんには、溢れ出るエネルギーと型にはまらない発想・行動力を十二分に発揮できる大きなフィールドが広がっていることは間違いないようです。

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