KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2007年10月31日

「熱きストラテジスト」 平松庚三さん

平松氏:「この中で、泥棒に入られたことのある人はいますか」
会 場:挙手ひとり
平松氏:「クビになったことにある人いますか」
会 場:挙手ひとり
平松氏:「それでは、クビを宣告された日に泥棒に入られた人はいますか」
会 場:シーン
平松氏:「それが私なんです(笑)」
講演のつかみとしてはこれ以上のネタはないであろうという逸話を披露したうえで、平松さんは講演を始めました。


平松さんの著書『ボクがライブドアの社長になった理由』を読むと、平松さんの人生が、実に波瀾万丈に富んでいることがわかります。
学生運動全盛期の早稲田在学中に、既成ルートを歩む人生に疑問を感じ、ジャーナリストを目指して世界を放浪。縁あって、読売新聞のワシントン支局にアルバイトとして採用され渡辺恒雄支局長(当時)の薫陶を受ける。年齢規制に泣き、新聞記者への道を閉ざされると、ソニーに米国在住広報部員として入社。やがて出井さんの下で、幻のMSXパソコン事業に従事。事業部解散にともない、ソニーを退社しアメックスに転身。以降外資系企業の日本トップを歴任する...。
細かく紹介しはじめたらキリがないほどの華麗なキャリアです。
講演では、そんな経歴にはサラリと触れただけで、インテュイット社長時代の話から本題に入っていきました。
ここで、外資系企業の日本法人トップにとって一番必要な条件を理解してもらえる逸話が紹介されました。
当時インテュイット社は、米国本社製の「Quick Book」と日本で買収した会社が開発していた「弥生」という二つの会計ソフトを持っていました。
本社から与えられた指示は、「Quick Book」拡販に向けた陣頭指揮でしたが、平松さんは、すぐに日本における戦略としては、「弥生」に経営資源を集中させることだと判断しました。
単身米国本社に乗り込んで、CEOに直談判し、力づくで、方針変更を承認させたそうです。
「外資系企業の日本トップは、本社と戦うガッツがあるかどうかなんです」
クビを経験しながらも、本社との戦いを繰り返してきた平松さんの要諦がここにあります。
ライブドアとの出会いについても印象的なお話をしていただきました。
MBOで弥生を独立させた平松さんがエグジットとして選んだのが、まだ世間の耳目を集める前のライブドアでした。
230億円の買収案件にホリエモンが一度も顔を出すこともなく、24歳の担当者が最後までディールを仕切ってしまったことに、さすがの平松さんも驚いたそうです。
そのスピードと権限委譲の大胆さが、ライブドアを選ぶ決め手になったとのこと。
入社してみると、また違った驚きが待っていました。
権限がホリエモンに集中し、全ての指示を出す。しかも65%程度まで詰めてしまうと、次の案件に関心を移してしまう。
その「粗さ」に危うさも感じていたそうです。
魅力と危うさが同居する不思議な企業体。それがライブドアの印象でした。
そして2005年1月に起きたあの事件。
マスコミを通じて、事のあらましを目にしてはいましたが、当事者が語ると、圧倒的な臨場感を感じましたね。
混乱の中で、無理矢理「火中の栗」を拾わされてしまった平松さんが、腹をくくってやったことは三つだったそうです。
「どっしり構える」「ニコニコ笑う」「大きな声で話す」
ソニーの盛田さん直伝の「ネアカ主義」です。
「ネアカ主義」の本質は、ネアカのフリをすることで、周囲をだまし、自分自身をだまして、本当のネアカになってしまうことだとか。
一種の自己暗示かもしれません。
やがて見えてきたことは、新生ライブドアの可能性でした。
WEB2.0に適応する高い技術を有した多くのエンジニアが辞めずに残っていたこと。
「地アタマ」「体力」「コミットメント」という3点セットを持った優秀な人材がいたこと。
この二つを拠り所に、新生ライブドアの絵を描き、ポータルサイト事業に特化したテクノロジーカンパニーへと脱皮する戦略を実行してきたそうです。
12月に、平松さんは退任されます。
スペースシャトルへの搭乗や小僧comの活動など、まだ「ハナタレ小僧」でしかない平松さんにはチャレンジすべきことがたくさんあるそうです。
「熱きストラテジスト」平松さんの挑戦は続きます。

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