夕学レポート
2008年12月03日
「オーラルヒストリーの力」 御厨貴さん
リーダーシップ開発の研究に「Lessons of Experience」(経験からの学習・教訓)という理論があります。
「激動の中で企業をリードし、高い成果を出してきた優秀な経営者は、一夜にしてつくられたのではない。成果をあげるリーダーは、自分で実行し、他人が挑戦するのを観察し、失敗を犯すことによって学ぶ」とする考え方で、個々の経営者・幹部がどのような経験をし、そこからどんな教訓・知見を獲得してきたのかを丹念に調べ上げるという方法論です。
この理論は、経験重視社会である日本の企業経営と親和性が高いようで、神戸大学の金井壽宏先生の「ひと皮むけた経験」や小樽商科大学の松尾睦先生の「プロフェッショナルによる経験からの学習」といった日本独自の研究を生みだしています。
御厨先生が専門とするオーラルヒストリーによる政治家研究は、「Lessons of Experience」のアプローチとよく似ているという印象を持ちました。
オーラルヒストリーとは、対象者自身に対する「聞き書き」によって歴史を記述研究するものです。通常の歴史研究は、文献資料をつぶさに検証することをもって科学的な手法とされてきました。しかし文書だけでは、政治過程、政策決定場面で実際に何が起き、どのような議論を交わされたのかというプロセスが記録に残りにくいという欠点があります。オーラルヒストリーは、その欠点を埋め、いわば生々しい政治の実像が見えてくるという点に特徴があるそうです。
経営学の「経験からの学習」が、リーダーシップ開発や業務能力開発など個人の成長過程を研究することに主眼が置かれるのに対して、オーラルヒストリーによる政治家研究は、政治や行政といった国家規模の社会システムの編成過程・形成原理に迫ることができる点で、よりスケールの大きなものかもしれません。
御厨先生は、本日の講演で、後藤田正晴と矢口洪一という二人の行政官僚(後藤田氏は政治家でもあり)のオーラリヒストリーを対比させることで、戦後日本の警察・司法行政の体系とシステムの形成過程史を解説してくれました。
それは、後藤田と矢口という傑出した二人の官僚の「経験を通じて得た教訓」を明らかにすることであり、その教訓が、警察と司法という行政組織の形成原理に、どのような影響を与えたのかをあぶり出すことでもありました。
後藤田正晴と矢口洪一は、年齢は6歳違うもののほぼ同時代人と言ってよいでしょう。東京帝大を卒業し、高文試験を経て旧内務省に入省。従軍と敗戦を経験し、復員後には、後藤田が警察官僚、矢口が司法官僚としての道を歩んだという軌跡もよく似ています。
ところが、おもしろいことに、二人が経験を通じて得た教訓は、まったく正反対のものでした。
後藤田正晴が、警察官僚・政治家としての50年を通じて貫いき続けた信念は次のようなものでした。
権力を持つ側(人間)には、必ず抑止力をセットしておかねばならない
昭和30年代、警察官僚のエリートコースに乗り実務実権を担った後藤田は、まずは警察人員の強化に邁進したそうです。
その背景には、「警察力には常に余裕が必要である。余裕のない警察は、いざという時に何をしでかすかわからない」という教訓がありました。
悲惨な戦争や戦後混乱期を経験した後藤田には、治安維持を司る警察には、権力行使の抑止力としてある程度の余裕を持たせる必要性があることを痛感していました。
やがて後藤田は、警察庁長官や警視総監の任期制を導入します。
これもまた、「最高権力者が長くその地位に留まると必ず腐敗する」という教訓によるものでした。
また後藤田には「二度と戦争を起こしてはならない」という強い信念がありました。
晩年の後藤田が、戦争の惨劇を知るハト派として政界に独自のスタンスを保ち続けたのは我々もよく知るところです。
司法官僚であった矢口洪一は、戦争体験や戦後の司法官僚制度の混乱期を経て、後藤田とは正反対の信念を形成していきました。
裁判所のなかにあって、「裁判しない裁判官」として司法行政一筋に歩き、やがて最高裁判所長官まで登り詰めた矢口ならではの信念です。
最高裁判所長官はもっと強くならねばならない。
矢口は、若い頃から司法行政の特殊性に強い問題意識をもっていました。裁判を担う裁判官と行政事務を担う司法行政官の深い溝です。ともすれば各裁判所は独自の権限を主張し、司法行政の現場への介入を排除しようとします。しかし現実に行政事務を自分達で回す能力には欠けています。
部門最適と全体最適が適合しないという大組織特有の病理の中で、長官のトップリーダシップを強化することこそが、近代的な司法行政組織を構築する道だと信じたと言います。
その背景には、船頭多くして何事も迅速に決められないという日本的集団主義の陥穽への批判も込められていたと御厨先生は見ています。
旧制高校のエリート教育を受け、官僚の道に進み、敗戦という価値観の大転換期を経て、戦後日本の官僚システムをゼロから築きあげてきた二人は、日本人が宿痾として持つ欠点を冷徹に見つめていました。
しかし戦後日本を再構築する当事者として、宿痾が悪化しないように成長するためにはどうすればよいかを必死で考え続けていたとも言えます。
二人の対比列伝からは、オーラリヒストリーだからこそ感じることができる「実感の張りついた知」がありました。
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