KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

夕学レポート

2009年01月14日

「見えないものを見る 聞こえないものを聞く」 田口佳史さん

日経新聞「経済教室欄」のゼミナールのコーナーで、年初から景気循環理論についての連載が続いているのをご存じでしょうか。
好況と不況の波が周期的に訪れることを解説する景気循環理論には、3年程度の短期周期の「キチンの波」。10年で循環するという「ジュグラーの波」。20年で繰り返される「グズネッツの波」。50年という長期サイクルで訪れる「コンドラチェフの波」等などがあるとのこと。
100年に一度と言われる現在の経済危機は、差し詰め4つの波が一緒にやって来たと考えると周期の辻褄は合いますが、まあどうでしょうか。
東洋思想の啓蒙者として40年生きてきた田口さんは、「この経済危機を、江戸期の達人ならどう見るか」というまくらから、お話を始めました。
儒学や老子、荘子など東洋思想が学問の基軸にあった江戸期であれば、きっと陰陽論で理解するだろう。
「陽極まれば陰となる 陰極まれば陽となる」
陰の時期と陽の時期が交互に訪れると考える陰陽論によって立てば、陰の時期は次に向けて準備の時期と考える。けっして悲観する必要はない。
準備は人知れず陰(かげ)でやるべきもの。陰でなければできないことをやればよい。
田口さんは、そう言います。


老荘思想の核には、人間への期待があるそうです。
「見えないものを見る 聞こえないものを聞く」
それこそが、人間ならではの凄さとのこと。
「玄人(くろうと)」という言葉は、玄=くろい、くらいという語源から来ており、暗いところでも見える人。つまり「見えないものが見える人」の意味。
未来、人のこころ、背後に隠れたものといった見えないものを見通し、聞こえない音や声を聞き分けることが出来ることが、人間が持つ究極の能力に他なりません。
玄侑宗久さんが「もうひとつの知」と喝破した知のあり方です。
見えないものを見るために、聞こえないものを聞くためのどうすれば良いか。
「それは骨の髄で修得するしかない」と田口先生は言います。
修得は反復によってのみ可能になります。
江戸期の教育で盛んに行われた四書の素読は「百字百回」を旨としたそうです。四書の文字数は5万2千8百字。一日に百回素読を続けて528日。それが修得に必要な時間と考えられていました。
骨の髄で憶えたことは一生忘れない。日本の伝統文化に共通する「型の文化」の本質はそこにあります。
見えないものの象徴が「無」であると田口さんはいいます。
東洋の文化には常に「無」が存在し、「無」をどう見るか、捉えるかが修練の究極目的でもありました。
千利休が唱えた「侘び茶」の精神、31文字に全ての凝縮した和歌のこころ、「描かないことで描いた」長谷川等伯の『松林図』、「梳いて・漉いて・鋤いて」残った究極の姿が「数寄文化」であるという松岡正剛さんの考え方も同じ文脈で理解することができます。
「無」を理解するのは「水」を考えるとよいと田口さんはいいます。
水は実体がありながら形がありません。ある時は生命を育む源になり、ある時は鉄砲水として全てを破壊する。一滴の雨だれであっても、長い年月をかけて岩を穿つことさえできる。
無形の強さ、柔軟の強さが「水」にはあります。
「柔軟は剛強に勝る」
「上善若水」

いずれも老子が語った「絶対的強さ」、人間が目指すべき究極の強さを表す言葉です。
東洋的視点とは何かと問われれば、「生命を喜ばせること」だと答えると田口さん。
いかにして生命を喜ばせるか、家庭も、職場も、企業も、社会も生命を喜ばせるために存在するべきだという考え方。「生命論的世界観」です。
それがないがしろになっていないだろうか、田口さんの問題意識はそこにあります。
外側の状況は千転万化する。変わって当たり前。変化する外側に振り回されて生きることのなんと愚かなことか。己(おのれ)があってはじめて状況がある。まず、己(おのれ)があること。己(おのれ)の確立を目指すのが東洋思想の精神である。
田口さんが、吶々と、静かに語る言葉には、恐るべき説得力がありました。

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