夕学レポート
2009年02月18日
論語のもつ自律的学習観
夕学プレミアム「agora」で論語講座をやろうと思い立ってから、論語をはじめとした東洋思想の本を、随分と読みました。
これまで論語や東洋思想については、まったく理解がなかったのですが、たいへん勉強になりました。
東洋思想・東洋的視点については、夕学で田口佳史さんがわかりやすくお話してくれましたが、個人的には、キャリア論、セルフリーダシップ、自由と自己責任など、90年代以降に人材開発の世界で盛んに取り上げられてきたテーマと近い部分があるという印象を持ちました。
論語は、近代に入って、教育勅語や修身教科書に取り込まれ、戦前の皇国史観や既成秩序維持のための思想教育に使われていたという負の歴史を持っています。
私個人としては、それを過剰に意識して、「食わず嫌い」で遠ざけてきたというのが、正直なところです。
「説教臭い」 「教条主義」 「右っぽい」etc。
そんなイメージを論語に抱いておりました。
ところが実際に、論語や東洋思想を勉強してみると、大きく印象が異なりました。
特に論語は、その自律的学習観に共鳴するところ大です。
なかでも、孔子の「学び」ついての考え方は、私が日頃から思っている「学習観」とピッタリ合いました。このブログでも度々紹介してきました。
2500年前、遠い中国で生まれた論語の教えが、現代の「大人の学び」の本質を語り得るというところに、時代を超えて生き抜いた普遍の真理を実感します。
例えば、「agora」紹介サイトでも使っているこの一節。
「知之者不如好之者」 之を知る者は、之を好む者に如かず
「好之者不如樂之者」 之を好むものは、之を楽しむ者に如かず
他者に強制され、単なる知識として憶えたことはすぐに忘れてしまいますが、自分の意思で、感動を伴いながら獲得した知見はけっして忘れません。
必要に迫られて、義務・役割で学ぶのではない。
目先の目的のために、功利で学ぶのでもない。
純粋に学ぶことを楽しむこと。
そんな次元になれたら素晴らしいと思いませんか。
「学び」と「実践」の関係について触れた次ぎの章も素敵です。
「学而不思則罔」 学んで思わざれば則ち罔(くら)し
「思而不学則殆」 思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し
ここで「思う」とあるのは、自分に置き換えて考える。自分の言葉で理解するという意味です。
どんなに高尚な理論を学んだところで、それを自分に置き換えて考えることができなければ学んだ意味はない。
ひたすら自分で思索するばかりで、それを解決する一助として「学ぶ」ことをしない人間は危うい。そんな含意でしょうか。
慶應MCCでは、「実践と理論の架け橋」を掲げておりますが、理論を実践に活かすことの本質を言い得た言葉だと思います。
「挙一隅而示之不以三隅反、則吾不復也」
一隅を挙げてこれに示し、三隅を反らざれば、則ち復たせざるなり
四隅の一角を示して、残りの三つに反応して答えられないような人間には、何を教えても無駄であるという意味です。
教育者としての孔子の基本的態度が凝縮した言葉だと言われています。
同じような主旨で、次ぎの一節もあります。
「不曰如之何如之何者、吾末如之何也巳矣」
如之何(いかん)、如之何(いかん)といわざる者は、吾れいかんともすること末きのみ
問題を持っていない(認識していない)人間に、解き方を教えたところで何の意味もありません。
いずれの言葉も実に、厳しいメッセージではありますが、どんな教育が良いのかを議論する前提として、誰を対象とすべきかを認識することに重要性を指摘してくれると思います。
「学ぶこと」に適齢期があるとすれば、それは、年齢でも、立場でもなく、本人が「学ぶこと」の必要性を認識した時である。
そんな、社会人学習の原点を言っているのではないでしょうか。
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