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夕学レポート

2009年02月23日

古典を楽しむということ

西洋の文化的基盤、社会的規範は、古代ギリシャ・ローマの文化とキリスト教の二つから成り立っていると言われています。
しかしながら、ギリシャ・ローマの文化が2500年以上連綿と続いてきたわけではなく、8世紀から12世紀まで約四百年の断絶時代がありました。
7世紀にアラビア半島に生まれたイスラム教は、あっという間にその支配圏を広げ、8世紀には、イタリアはもちろんのこと、イベリア半島からピレネー山脈を越え、現在のフランスの大部分にまで勢力を広げることに成功しました。イスラム帝国の時代です。
彼らは、ギリシャ・ローマの文物を残らず収奪し、イスラム世界に持ち去ってしまったといいます。その後、ヨーロッパのキリスト教勢力は、長らく不遇の時代を過ごし、ギリシャ・ローマの歴史は遠い彼方に忘れ去られていました。
ようやく12世紀に入って、キリスト教社会は勢力を盛り返し、数世紀を費やした「国土回復運動」によって、イスラム勢力を駆逐し、かつての領土を奪い返します。
イスラム勢力が逃げ去った領土には、彼らが遺棄していったギリシャ・ローマの文物が残されていました。すでにアラビア語に翻訳されていた、それらの文物を通じて、キリスト教社会の人々は、改めてギリシャ・ローマの文化に触れたと言います。
彼らは、その時はじめて、アリストテレレスやプラトンを知り、その思想が自らの社会的規範の原型であったことに気づきました。
こうして、古代ギリシャで尊ばれていたという「リベラルアーツ」は、西欧文化の基礎として再編成され、西洋の古典として継承されてきました。


翻って現代の日本の話題です。昨年末、水村美苗さんの『日本語が亡びる時』が評判を呼びました。
明治以降、西欧社会の概念や思想を日本語に翻訳する作業を通じて、日本の近代文学は成立していったと水村さんは言います。
-日本とは異なった社会・文化基盤から生まれ、英語やフランス語などの外国語で記述された概念や思想を、日本語という特異な言語を使って、基盤の異なる日本人に伝えようとする高度に知的な行為が、近代日本の知識人の使命であり、その知的努力の蓄積が、豊潤な近代文学を拓いていった。
夏目漱石や森鴎外はその先駆者である。
そして、その正反対の行為、つまり日本ならではの概念や思想を、英語を使って、まったく基盤の異なる西欧社会に伝えようとする高度に知的な行為が、近代日本の知識人のもうひとつの使命であり、その知的努力の蓄積が、近代日本の国際化を支えていった。
内村鑑三新渡戸稲造はその実践者である。
しかし、グローバル社会の進展は、西欧の概念や思想を日本の文脈に置き換える時間を許さず、英語という共通語を日本の知識人が使いこなすことによって、西欧社会と直接的な相互理解を行うことを要請している。
その結果として、すべての日本の知識人が、英語を使って、情報の受発信を行うようになり、日本語は、小さな島国の生活語として細々と命脈を繋ぐしかなく、文学を紡ぎ出す豊かな文化言語としての日本語は姿を消してゆくだろう...。
それが、水村さんの主張でした。
言葉の持つ、無限の可能性を示唆する一方で、日本語がその文化的使命を終えてしまったのではないかと水村さんは言っているように思います。
でも本当に日本語は衰退してしまうのでしょうか。
確かに、西欧の概念や思想を日本文化の文脈に置き換えるという行為が、重要な意味を持たなくなる時代は来るのかもしれません。
しかし一方で、私たちは、近代以降、私たちの「内なる何か」を見失いつつあるのも事実ではないでしょうか。
言うなれば、かつての日本人の精神世界や価値観を、現代日本社会の文脈の中に置き換えて理解するという行為が、求められているような気がしてなりません。
12世紀の西欧キリスト教社会が、イスラム世界の忘れ物の中から、古代ギリシャ・ローマの文化を見つけ出したように、私たちは、この150年の日本人の忘れ物の中から、「内なる何か」を見つけ出せるのではないでしょうか。
その時、日本語はけっして輝きを失うことはないはずです。
リンボウ先生は、日本人のこころを意味する「大和魂」という言葉が、すっかりと変容していると指摘しています。
本来の「大和魂」は、勇敢な精神と行動を尊ぶ「荒魂(あらたま)」と、繊細で心優しい心根を持つ「和魂(にぎたま)」の二つがありました。文武の二つの精神を合わせ持つのが「日本人のこころ」です。
日本人には、古代から、人情の機微を知り、四季のうつろいに敏感で、僅かな変化の中に「常ならんこころ」=無常観を見いだすことができる豊かな感受性がありました。
夕学でも、山折哲雄さん千宗室さんが指摘されたところです。
また、佐佐木幸綱さん教えてくれたが古代和歌の素直な自己主張。加賀美幸子さんが語った源氏物語のように奔放な愛情など、人間らしい生き生きとした生命力を合わせもっていました。
私たちが知らない、というよりすっかり忘れてしまった豊潤な感性が、かつての日本にはありました。
日本の古典は、その豊かな精神世界を、当代一流の知識人が表現した「知と感性の結晶」に他なりません。だからこそ、1000年以上も読み継がれ、尊ばれてきたのです。
感性を理解するのに、頭を使うことほど愚かなことはありません、リンボウ先生が言うように、母語というのは、言葉を理解しているのではなく、意味や文脈を理解するものなので、言い回しや表現がわからなくても、言わんとしていることはわかるはずです。言葉の背景にある情景や心情を、ありありと想像し、共鳴することができるはずです。
豊かな実りもあれば、ヘビも棲み、生命の息吹も溢れれば、おばけも出る、そんな古典の森をリンボウ先生と一緒に歩きながら、頭ではなく“こころ”で、古典の楽しさを存分に味わってみませんか。

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