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夕学レポート

2009年07月24日

昭和史の聞き取り部として 保阪正康さん

「その時、あなたはどう思いましたか」
昭和史をフィールドにして、4000人余の人々に聞き書きを行ってきた保阪正康さんは、その問いかけを繰り返してきたと言います。
返答を聞きながら、相手の体験を共有化し、自分がその場に生きていたらどうしたかを、今度は自らに問う。
それが、保阪さんの歴史との向き合い方です。
歴史の語り部ならぬ「聞き取り部」と言ったところでしょうか。昭和史の当事者の話を「聞き取る」ことで、歴史を残していこうとする職人肌の歴史家という印象を持ちました。
保阪さんは、昭和という時代を3つに区分しています。
・前期:昭和元年~20年までの「戦争期」
・中期:20年~27年までの「占領期」
・後期:27年から64年までの「復興・発展期」
昭和という時代は、3つの区分毎に、着る服(制度やシステム)を大きく変えました。
外見は劇的には変わったが、では、中身(精神)はどうだったのか。
それは、3つの時代を象徴するリーダーの人間像を分析することで見えてくると保阪さんは言います。
前期のリーダーは、東条英機であり、彼が目指したものは、軍事国家体制でした。
中期を象徴するリーダーは、吉田茂であり、彼が心血を注いだのは外交(対米・対GHQ)交渉でした。
後期を代表するのは田中角栄であり、彼が体現したのは、経済(金)が幸福を決めるという価値観でした。
言わば、一身三世とでも言い得るように、昭和という時代は、外見と中身を変化させていったわけです。
ちなみに、3人のリーダーの共通点を探してみると「ムショ暮らし」が上げられるとのこと。東条はAQ戦犯として巣鴨プリズンに収監され、吉田は、親米危険思想の持ち主として戦争末期に官憲に捕らえられ、田中は二度の疑獄事件を起こしました。
3人の監獄経験は、3つの顔を変幻させてきた昭和という時代に、縦串を通す意味を持つ「軸」に関係しています。「アメリカ」という軸です。
「昭和史は、アメリカを抜きにしては語ることは出来ない」
と保阪さんは言います。
日本は、アメリカと敵対し、降伏し、支配を受け、同盟を結び、市場とする、ことで昭和という時代を歩んできました。
その結果として、「アメリカと不即不離の関係でいることがよい」という現代に繋がる価値観が形成されていったと言います。
昭和を貫くもう一つの軸が、「天皇」であると保阪さんは見ています。
大日本帝国憲法下の国民は、天皇の臣民でありました。
日本国憲法下の国民は、天皇を象徴として掲げる主権者です。
天皇と国民の関係の劇的変化が起きたわけですが、不可思議なのは、その変化を、天皇自身が積極的に受け入れ、推進していった点にあります。
天皇は、なぜかくも鮮やかにチェンジできたのか。彼の内面に何があったのか。保阪さんは、天皇が残した短歌、側近のメモ、記者会見記録をつぶさに読み解くことで、天皇分析を試みました。
その結果、天皇とアメリカという昭和を貫く二軸の交差点に行き着きました。昭和20年の秋に行われた「天皇-マッカーサー会談」です。
「この会談は、二人の目には見えない戦いではなかったか」
保阪さんは、そう分析しています。
天皇は、不本意な戦争を防ぐことが出来なかったという慚愧の念を内に抱えつつも、今度こそ身を挺して日本を守ろうという使命感を秘めて会談を希望しました。
マッカーサーは、日本の占領政策を成功させることで、間接型統治のモデルを完成させ、大統領選へと繋げたいという野心を胸に会談を受け入れました。
二人の会談で、どんな会話が交わされたのかは、今もって全てが明らかにされたわけではありませんが、行き着いた先にあったのが「天皇制下の民主主義体制」という選択でした。
「天皇制下の民主主義体制」を実現するために、天皇は自らがその体現者として積極的に関わっていった。それが「二人の約束」だった。
保阪さんはそう見ているそうです。
昭和という時代は、「戦争」、「占領」、「復興・発展」という3つの衣装を着替えながら、外見とともに中身を変えることで続いていきました。
一方で、その変化に大きな影響を与えた「アメリカ」と「天皇」という二つの軸は、敵対から共生へと関係性を変えつつも、昭和という時代を支え続けました。
昭和史の「聞き取り部」保阪正康さんが、一番聞き取りをしたかったのは、昭和天皇とマッカーサーだったのではないでしょうか。
「その時、あなたはどう思いましたか」
二人に、そう語りかける保阪さんをイメージした夜でした。

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